頭上華萎
目が覚めたとき、そこは地獄よりも地獄的なあの瞬間ではなく、もっと以前の、どこか部屋の中だった。
狭い部屋だったが、目覚めたのがベッドの上だったので、まるで悪夢にしか過ぎないような気がする。それでも、ここは本来の居場所ではないのだ。
今の状態は『懐古』とは異なっていると思う。懐古する先は確かに、いつなのかが具体的に分からないが、一方で選択権はあくまでも懐古している主体に基づく。
だが、僕はこのような時空を選んだ覚えはない。
「違う」
拒絶してしまったからだ。
あの時間、智音は『
だが、僕が干渉したことによって、別な事象が生まれた。その先にある未来において、智音は第二の衰を定められた。こんな
最低だ。
それも自分のせいだなんて。それも彼女に温かい声をかけられなかったなんて。
電波時計は2020年4月20日午前9時丁度を指していた。
この辺りになると、もはや思い出らしい思い出はほぼない。それというのも、智音と会う以前の話、僕が生きる意味を見い出していなかった、誰とも繋がりがなかった頃だからか。
家具もほとんど置いていないこの一室で、僕は無意味に日々を費やしていた。
「学生だったよな」
それ故に、今の僕には大きな意味がのしかかっている。無意味さを意識的に送らなければ、後の出来事につながらない可能性が極めて高い。例えば、もし僕に恋人でもできたとしよう。その瞬間、智音と僕との共同体は破綻し、世界は塗り替えられる。
この塗り替える、という現象を、僕はただ智音の未来のために行使しなければならない。
智音とあった共同紀元前であり、時間軸はひたすらに針を進めようとする。
僕はこの頃、小説を書き始めた。
これが智音と会うきっかけとなったのは歴史が証明している。
問題は、言語から離れていた僕に、今執筆する能力があるのか、それが怪しい。
そもそもこの時代にはくるつもりが無かったのだから、余計な懐古は謹んで、一度戻るのが得策。
だが、精神に長けた者による拒絶の壁は、自分で破壊できるほど一時的なものではない。僕は智音のあの姿を見たせいで、しばらくここに足止めを食らうこととなったのだ。いつ戻れるかは本当のところ不明。
精神を介して行われることなので、本音だけがこの世界を形作る。それが懐古のカラクリであると同時に、危険性のひとつでもある。
きっと智音は衰体しつつある自身よりも、戻ってこない僕を案じているのだろう。そう思うと、いたたまれなくなる。過去をやり直そうというのに、この無力感はなんだ。
ふと疑問が生じる。この感覚は本当に僕のものなのだろうか。希死念慮に近い感情さえあったこの頃に戻ったことによる反発かもしれない。
すると、僕の思いであると断言できる証拠などどこにあるというのだ。拒絶による制脳現象が働いていたとして、それを探知できるのは智音の他に居るはずもない。
僕は病気を医者に診てもらうように、今すぐに智音に会いたくなった。
共同体としての思念が遮断されどれほどの時を経たのだろう。水洞では
「智音は生きている」
不意に口からでた事実は、納得しかねるものだった。
だが、半身を失いつつある僕に、それを制する意思は既に傾いてしまっていた。
殺風景な部屋を出て、僕は己が足で物語を書き進めることに決めた。世界はとても明るい。けれども、もう目が焼ける思いはしなくていいようだ。
安堵と焦燥は、さして僕の行動を止めはしない。
ところでここは現実なのだろうか。まるで夢のような、脳のみせるランダムな断片の寄せ集めに過ぎないのではないか。
「うさぎが一匹」
少女は明らかに僕を指差しそう言った。
無視するべきか。だけど、どことなく大人びてもいて、単なる幼気な少女とは違う何かがある。
まるっきり虚ろな目をしているその子は、正当な命令を発した司令官のように、あくまでもうさぎが気になっているらしく、その目線を掻い潜れない。
「迷子かな?」
該当する記憶がないことに内心、奇妙に感じつつも、それならばと捻り出した一般的応対を実施。
「うさぎさんは逃げ出したの?」
「あのね、お兄さんはうさぎじゃないよ」
「うそ」
「うそじゃないよ?」
「困ったうさぎさんだね」
もしかするとそういった類いの病なのかもしれない。もしそうなら、キツく否定しない方がいいのかな。
「うさぎさんは独りぼっちなの?」
「そうかも。君は?」
「わたしアカネ。ねえ、わたしが助けてあげるから泣かないで」
「あ、ありがとう。あれ……?」
何を言うんだ、と思ったのに、本当だ、涙が出てる。なんだこれ。それに、アカネという名前もどこかで。でも、やはりおかしい。
「アカネちゃんは優しいね」
「それしか方法がないもん。うさぎさんは知らないよね、人は集団でしか生きていけないんだよ」
「そ、そうかな」
「そうだよ」
どうせ親の受け売りにしか過ぎないだろうに、どうしてこうも断言できる。まるで僕が責められているかのように。
「アカネちゃんは物知りだね」
「さっきも似たようなこと言った」
「え、そうだっけ」
「ん~まあいいや。こっち」
相変わらず、大きな目には覇気がない。しかしハキハキと、それでいて活発さとも違う何かに、僕は促されていくこととなった。
落ち着きはしない。むしろ不安がそうさせるんだ。話を聞かなくてはいけない、付いていかなければいけない、と。
そして、あくまでもこちらの方が大人である、という少しの優越が、彼女の勝手さを容認する手助けになったのも事実である。
彼女はまっすぐに春風を切り、やがてぽつねんと残された廃校の前で止まった。どうやら目的地はここらしい。なるほど、うさぎと少女の戯れる場所にはぴったりだが、大学生らしき男と中学生くらいの女の子が連れそうにはどうだろうか。
「うさぎさんみたい」
細い指が向けられているのは鬱蒼と生える木々でもなく、ツタの支配する校舎。
「そう……?」
精神を介して僕と智音は二人で過ごしてきた。それはシグナルの幅を同調させるというプロセスを経るわけだが、それが今は祟っている。彼女の独特な感性、あるいは思考を察知できないのだ。当然といえばそれまでだが、僕はまたしても辛さを堪えなくてはいけなかった。
「確かに、似てるかもね」
「ふふ、でしょ?」
彼女は懐中時計をスカートのポケットから取り出す。珍しいモノなのか、もはや時代考証できるほどの記憶は保管されていないので、僕も一緒に秒針を見つめるだけにした。
9時42分13秒。
途端に僕は還るべき場所を失った。
「人は集団でしか生きていけない」
チャイムのようにその一言が繰り返される。時間が、アカネが僕をここへと縛り付ける、そんな感覚が急激に強まっていく。
「うさぎさん、お名前あるの?」
つぶらな瞳の奥底には、世界からの問いかけが潜んでいる。彼女の目に煌めきと呼べる何かがないのは、きっと閻魔帳を隠すためにフィルムを張っているからに違いない。
「僕は彼女の元に行かなければならない」
「ううん、それはだめ」
「どうして君がそんなこと」
「わたしがうさぎさんと親しくしていないと、思い通りにいかないから」
「何を言っているのか、本当に分からないよ」
「わたしはもうすぐ死ぬ。それまでの暇つぶしがないと、後に何も残せなくなる」
「君が、えっと」
思ってもみない切り替えしに、まんまとたじろいでしまう。
「わたしは死ぬ。うさぎさんと遊ぶのをやめて、それでね、あの子にこんなことがあったよってお話したら、寿命が来るの。そしたら今度はその子が、一生懸命になってうさぎさんを見つけに行く」
妄想。病気。いくらでも理屈は挙げられる。
でも、この世界に縛られている感覚が、もし、気のせいじゃないとすれば、万に一つ、その可能性があるならば。
「来てよ、うさぎさん。ここはわたしたちの秘密基地なんだよ」
考えはまとまる気配がない。
それでも、僕はこのたった一歩を制することができはしない。
『恒星間文明記録思念体第壱号オウムアムア』
途中の花壇には、そんな変わった文言の書かれた、小さな手作り看板が地面へ差し込まれていた。人知れず手入れされている節のある花壇に、一輪だけ植えられた百合の花は、その相手のいないがために、自身の花粉に花びらを汚し、強い香りを放っている。
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