True Endのその先に

綾波 宗水

衣裳垢膩

 僕らには既に過去という概念が消失していた。時間の意味を享受できているからこそ、僕は智音さとねと本当に二人きりで生きていくことができるんだ。恋人や結婚などという形式主義からは遠い昔に脱していて、今はもはやであるとさえ言える。あえて言語化すれば共同体かな。

「そうだね」

 言葉に出される以前に、智音は僕の思念を察知する。精神世界をのみ共有し、ずっと過ごしていたからこその祝福。

 正直、この能力は智音の方が長けているようだ。きっとここに来る前からの生き方に多少なりとも左右されているに違いない。


 ここに時は流れていない。だから、過去を思い出すのはそれなりに体力を使う。

 だが、僕はその責任があるということをひしひしと感じている。

 来たるべき日に備えて、僕は智音よりもほんの少しだけ多く『水』を取っていた。


 これはとても迷いを僕に生じさせた。懐古する目的が、智音の『本音』を再確認するためだというのに、水をその分減らすこととなった智音は、その衣服に花粉をつけることとなってしまったのだ。

 もう予断を許さない。智音が萎れてしまうことになっては、いかに懐古しようとも、未来が現れることは無く、再び僕は彼女と引き裂かれてしまう。


「気をつけてね………」

 智音はどこまでも僕の感情を認知する。だが、懐古となると、漠然とした興奮や恐怖などしか見て取ることはできなくなるらしい。懐古は分化でもあるのだ。今と未来を共にするからこそ、過去は捨て去られたパーソナルの残骸。前世の業。


「きっと君を救ってみせる」


 ダイブ、もしくはジャンプするだけならまだしも、捨て去った過去を拾い直すのは至難だった。

 息のできない状態で水中深く潜って何かを拾い上げようとしているといったところか。


 *****


「守さん」

 目を覚ますとそこには幼い頃の智音がいた。僕に人生という思想を付与するならば、その過半は智音と一緒にいるので、ひとまず、それ以前の懐古ではなくて安心した。

「う"あああああああ!」

 だが、そこは一面、陽の光に包まれた灼熱地獄だった。

「ど、どうしたの!??」

 最初、彼女は困惑していた。だが、僕が目を覆っていることから何かを察したのか、すぐさま僕を抱きしめてくれた。

『外界』へと来てしまった、というのを理解したのは、その服の手触りによってであった。

「眩しすぎる……!」

 僕らはずっと『地底水洞』に住んでいた。だからこそ、視界情報から言語情報へ、そして思念精神探知へと適応していった。それなのに、こうも明るいと何も考えられなくなってしまう。

「守さん、こっち」

 手を引っ張って、彼女は木陰へと誘う。甦る感情と、その握手によって再び過敏となる精神探知が酔いをもたらす。これほど過去が苦痛だとは。気心の知れた智音が相手でもこの反動だ、ここが山奥で良かった。


「どう? まだ苦しい?」

 智音の不安が肌に伝わる。幾呼吸か挟んで安心の情を送る。だが、依然として彼女は僕をいたわったまま。そうか、流石の智音もまだ偶発的なレベルなのか。

 声帯の使い方を思い出すため、数回無意味な音を鳴らしてから、問題がないことを伝える。そしてようやっと伝わったらしい。

「智音」

「ん?」

 幼年期の彼女をようやく視覚でもってしっかりと認知したが、思っていた以上に健康ではなさそうだ。まだ懐古地点としては適当でなかったのか?

 だが、彼女の衣服の汚れ方は常人のそれ。健康についてもきっとその一種、栄養素の加減だろう。

 地上であることからしても、ここは僕らが遁世とんせいしてしばらくたったに過ぎない時間軸のはずだ。

「僕は………」

 彼女の未来を伝えるべきだろうか。そして今の自分が、現在の自分ではないことも。

「ぼく? 守さんって一人称、俺じゃなかったっけ?」

「お、俺?」

「え、うん」

 懐古の結果、時間軸に波紋が生じたのか!?

 少なくとも僕は『僕』だ。

 そうか、自我のズレかもしれない。現在の自分が、今の自分によって、保留されていることによる担保であり、セカイ側からの差別化。それがこのようなズレを生むのか。気をつけないと。智音の衰体を防ぐどころの話ではなくなってしまいかねない。

「まぁ、そんなことよりさ、今夜はどうしようか」

「それはどっちの意味で?」

 いじわるな顔をするが、どこかあどけなさも残っている。遁世の折、僕らは自由市民からの離脱をし、かえって浮かれていたのかもしれない。だが、この世界に満足してはいけない。

「…………そうか」

「え、ちょっと、そんな!??」

 眼をなるたけ覆いながら、僕は水洞へ至る道を探し始めた。彼女の感情の大半が恥じらいを含んでいるのが、手を繋いだ結果、流れ込んできたが、困惑も秘められている。状況から考えるに、懐古が成立する瞬間、今の僕が倒れたのだろう。だから、彼女が覗き込んでくる形で目が覚めた。

 それ以来、挙動不審な僕を、どうすることもできないことを彼女は分かっている。そしてだからこそ、その困惑を隠すようになった。


 彼女と遁世するべきではなかったのではないのか。


 きっとこの問いかけは、『俺』から発せられたものに違いない。

 文字に親しかったその頃の僕は、きっと空想的な節があったに違いない。だからこそ、自分のシナリオ外の事柄にはとことん焦燥感を覚え、ついには彼女を伴って、この山奥へ。


 だが、今はとにかくどこかへ居座る必要がある。それも遁世的に。

 さもなくば未来の根幹が揺らぐ。

 もしここで連れ戻されでもすれば、智音は『天人てんにん』たり得なくなってしまう。それだけは避けなければならない。


 なぜなら彼女の人としての生はそもそもほぼ失われつつあるのだから。

 智音はいつぞや、自死を遂げようとしたことがあったはずだ。

 はっきりとは思い出せないが、これだけは懐古するまでもなく、忘れずに残っている。

 そう、無かったことにしてはいけないことだから。


「まもるさーーーん!!」


 突然、静寂は破られた。誰かが僕の名を呼んでいる。

 彼女の緊張が瞬時に伝わったのも相まって、思わず逆流させてしまった。

「うッ」

 叫ぶほんの数コンマ以前に僕は彼女の口を押え、そして精神安定をげんとした。

 智音が落ち着くとともに、自分の記憶も若干ながら戻りつつあることを意識していた。捜索隊だ。僕らの動向に関心を寄せていた近しい者たちが編成依頼した集団から逃れる為に、僕らは山々を駆け回った。まるで落ち武者のように。


 そうだ。そうだった。

 ふつふつと思い出される記憶の断片を処理しつつ、僕の背負うべき課題の多さに今更ながら驚愕する。

 天人を救うことの困難は口にするのもはばかられる。きっと一つ一つ挙げていけば、不可能だと感じてしまうから。僕らは感じてしまえばそれまでなのだ。そしてそれは、時を超えて、智音にも幾分か知らないが、伝わってしまいかねない。


「はぁ、はぁ」

 ただでさえ連日の野宿的日々である。疲労困憊な様子がたとえ数十メートル離れていたにせよ明瞭に伝わってくる。

「智音、ごめん」

「ううん、それよりさっきのって」

「消防団か、警察かな」

「ねぇ」

 智音の額には汗がにわかに滴り、目には潤いがあった。

「大丈夫。大丈夫だよ」

 懐古とは過去の自身に憑依し、干渉する術である。そもそも懐古がなされているという事実が、メンタルパラドックスを発生させかねない。

 それでも、大丈夫だと信じなければ。


 陽が落ちて、僕個人は活動しやすくなったが、彼らはそうではない。段々と物音は消え去っていき、再び鳥の不気味な鳴き声と草木の揺れる音、そして智音の呼吸だけが空間に響きだした。

「きっとそのうち、あいつらも来るはずだ」

「そう………かも」

 駆け落ちカップルを、見ず知らずの赤の他人が呼んだとて、どうして出てくるはずもない。それよりは、近親者や友達あいつらが来る方が可能性が高い。情に訴えかける手法なんて、刑事ドラマでも古典中の古典だし。

 僕はこの時間軸で何をすべきなのか。それを見定めるまでは下手に戻れない。


「絶対にから離れるなよ」

 初めて智音に笑顔が戻った。僕はこの光景を決して忘れたりはしないと誓った。かつて体験したかもしれない、智音の微笑みを。


 次の日は雨だった。

 昨日と違って光量が少ないので活動しやすい。それに自然の水に触れているのは心が休まる。

 智音の方も、川と違った水浴びを少しは歓迎していたようで、僕の前だから露骨に髪をとくことは無かったけれど、時折、散歩をして雨宿りし続けることは無かった。


 いつまで懐古可能か分からない。

 だから、できるだけ天人へと至る因果を妨げることなく、彼女には肉体の時から健康で居てもらわねばならない。

 たとえ僕の寿命を削ったとしても。


 雨がやや強くなった午後。

 僕は水洞の場所を考えつつ、今いる仮の住まいをアップグレードするために、きをもんでいた。


 それが第一の問題となった。


「さ、さと……ね?」

 またしても水浴びか、と高をくくっていたのだが、思いの外、帰りが遅い。それに辺りを見回しても姿が見えない。

 まさか。

 そうよぎったのはかなり遅かった。今の状況もそうだが、少しずつこちらの身体に慣れてしまったらしく、精神機構が通常化しつつあるのかもしれない。



 ところどころ滑りそうになりつつ、慣れない山道を駆け回ったすえに、崖を前にして、膝から崩れているかのような姿で座っているのをようやく見つけた。

 衣服は薄着だというのに乱雑にはだけており、ショートボブにも少し泥がついている。

「あ。あ」

 いかに愚鈍な人間であっても、智音が心底、恐怖しているのは明らかだった。

「何が…………」

 彼女はこの雨に負けないほどに涙を流した。声も出さずに。あるいは出せなかったのか。

 少し経って彼女は崖の方を指さした。

 落ちそうになった、とは考えられる状況ではない。自分が嫌な予感を抱いているのに気づきつつそれを無視して、崖の下を覗き込んだ。

 長髪で、使い古したセーターを着こんだ男の遺体が岩に打ち付けられていた。

「じ、事故だよ、何もかも。ううん、何もしてない、ホントだよ、ずっと抵抗したもん」

 それは僕への説明ではなく、自身への弁明だった。

 あの醜い男が、智音に乱暴を加えようとした。

 こう悟ったとき、僕はいっそのこと、この身を奴の上へ投げて、地獄の底まで落としてやろうかと強く憤った。

 そして、その精神バランスの不調は、すぐさま世界に影響をもたらした。


 智音の心の中核にあった『精神華』が萎れる音が、確かに僕の中に響き渡った。

 智音の衰体が一段階、進んでしまった。それと同時に、僕の視界は暗転してゆく。

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