第16話
「急な事でまだ支度が出来ていないが、ここをユウキの控室にしようと思っているんだ」
そう言い案内されたのは、彼のデスクから一番近いドア。
多分ここは彼のプライベートルームなのだろう。
「もとは俺の仮眠室だったから殺風景ですまない。すぐにユウキがくつろげるように整えるから、少しの間我慢して」
「そんな、僕はこの部屋が好きだな」
部屋全体はシックな造りで落ち着く感じ。
開放感のある大きな窓、でもそこも分厚いガラスで覆われている。
そして空が見える位置に、大きなソファとサイドテーブルが置かれ、一番奥にはあまり使われている様子の無いデスクとイス。
「明かりはセンサーで灯るから切り忘れとか気にしなくていいよ。水回りはそこの通路の奥に有るから。それとベッドは収納式になっている。もっとも俺はあのソファで寝る事が多かったから、ベッドはあまり使ってないけど」
これって既に仮眠室レベルじゃないと思う。
「冷蔵庫と収納は、壁と同化するように設置してあるからおいおい説明していくね。それとスイッチ類の殆どは音声認識になっていて、何をしたいかを声に出せばいい。例えばテレビが見たい…と言えばこうやってモニターがオンになる」
彼の声に反応したのか、壁の大きなモニターがつき、女性アナウンサーが何かしゃべっている。
「モニターオフ」
そして彼の声と共にテレビが消える。
「もし映画が見たければ、その題名を言えば何でも見れるはずだ。まあコツとしては、何をどうしたいのかを明確に発音すればいいのさ」
「すごい、初めての物ばかりで、僕なんかが使いこなせるか分からいな」
「分からなかったら俺の名前を呼んで?すぐに駆け付けるから」
「えっ、名前って……」
そう言えば、今まで恥ずかしくて彼の名前をあまり口にしていなかったっけ。
「呼んで、ユウキ」
見た目はまだ少年っぽさが残っているくせに、その眼差しは一人の男として真っ直ぐ僕を見つめている。
自分でも顔が火照るのが分かり、そっと俯くけれど、ほんの少しだけ背の低い彼と目線が重なってしまう。
「ずるいよ……」
「ユウキ、いや?」
「い、嫌だなんて……フ…フロレンツ…様」
「様は要らない。名前を呼んで?」
「そんな…で、出来ない」
「そう、ならば俺も君をフルネームで呼んで、最後に様を付けるよ?」
名前で呼んでくれないの?それを聞いた途端、彼との間に大きな溝が出来た気がして、寂しくて涙がにじんでくる。
「ごめんユウキ、急かしすぎた。でもゆっくりでいいから俺の事も名前で呼んでくれると嬉しいな」
いつの間にか人は消え、部屋には僕たち二人きりになっていた。
そして彼に手を引かれ、僕達はソファに移動する。
「泣かないでユウキ、俺が調子に乗りすぎた。出会えてあまり時間も経っていないのに強引だったね、本当にごめん」
ほら、彼が困っているじゃないか、どうしてこんな事で泣くんだ。
「違う…僕が我儘なんだ。あなたは命がけで僕を救いに来てくれたのに、僕はあなたに何のお返しも出来ない」
だから彼の願いぐらい、名前を呼ぶぐらいしてあげるべきなのに。
「やっぱり僕なんて、あなたに相応しくないんだ」
ここに居る彼こそが自分の運命だと分かっているけれど、それでも僕は彼には相応しくない。
彼の横に立つのは、もっと綺麗で、もっともっと優れた人が立つべきなんだ。
きっと彼は外れくじを引いてしまったんだ。
「ユウキ…ユウキ、ユウキ…」
彼は僕の名を呼びながら、頭に、瞼に、頬に、そして唇に、軽くキスを繰り返す。
「俺は見返り目的でユウキを助けに行ったんじゃない。俺はユウキを愛しているから、お前と出会う前から生まれる前から愛していたから、だから助けに行ったんだ。俺は俺のために、ユウキを取り戻すために行ったんだ」
胸を締め付けていた冷たい氷の茨が、その言葉の端から溶けていく。
そう、彼と出会ったあの瞬間、彼と目が合った時から分かっていた。
僕は彼のために在ったのだと、彼は僕のために存在してくれたんだと。
お互いが唯一無二の存在なのに、それを自分から拒絶してどうする。
何も恐れる事など無いんだ。
そして大きく見開らいた僕の目の先には、心配そうに僕を見つめる目が。
「分かってくれた?」
僕はこくんと頷く。
「それとユウキ、僕なんかと自分を卑下するのはやめて。それは僕に対する侮辱と同じだよ?」
「うん、ごめんなさい。もう口にしない」
そうだ、いつまでも負の感情に捕らわれてはいけない。
僕は彼に選ばれたんだと誇れるよう、頑張らなければ。
「いまいち分かっていないようだけど、まぁさっきよりはいいか…。君がオメガに目覚めてからいろいろな事が有って、気持ちがまだ不安定なんだろう。それなのに追い詰めるような事を言ってごめん」
「そんな、あなた……フ、フロ……フ」
あなたが悪いんじゃないと言おうとしたんだけど……、ふと気が付き頑張ってみる事にした。
「フフ、フロレ…ン、フ………」
「クックックッ、あ~ユウキ、そんなに無理しなくても良いから。そう、ロって言ってみて?」
「えっ?ロ?」
「ン」
「ン?」
「そう、ロとン。続けて?」
「ロン?」
「もう一度」
「ロン」
「はい、あと十回」
「ロン、ロン…………」
「はい、良く出来ました。これから俺を呼ぶときはロンって言ってね」
「えーー!」
「うん我ながらいい考えだ。僕の事をロンと呼ぶのはユウキだけ。ねぇ、もう一度呼んで?」
「えっ、ええ!……えっと、ロッ…ロ、ロ」
「さっきはちゃんと言えただろ?ほら頑張って。それともフロレンツと呼んでくれるの?」
これ、絶対に楽しんでるよね。
でもこの機会を逃したら元の木阿弥。
やるしかない。
「ロ、ロン!」
「うん、何?」
「何って…あなたが呼べって…」
「あなたじゃ無くてロンだよ、ロン」
「ロ…ン、ロン」
彼の腕が伸びてきて、僕をギュッと抱きしめる。
「あ~いいなぁ。ユウキが俺の名を呼んでくれた。それもユウキにしか呼べない名前で。いい?ロンはユウキにしか呼ばせないからね。ユウキは俺にとってそれほど大事な存在だって、よく覚えておいてね」
『お取込み中すいません。ボス、至急相談したい案件が発生しました。良ければこっちに来てもらえますか?』
「分かった。すぐに行く。ごめんユウキ仕事が出来たみたいだ。しばらくここで寛いでいて?」
「僕の事は気にしないで、お仕事頑張ってね」
ドアから出て行く彼を見送る。
一枚の壁を隔てているだけ、彼はすぐ向こうに居るって分かっているのに、こんなに寂しく感じるなんて……。
僕ももっと強くならなくては。
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