帝国領東部にて

 チザーレ使節団が帝国領内を南下している頃。帝国東部随一の大都市であるジェモメスブルクに置かれた、帝国陸軍東部軍総司令部本営の執務室で、ヴィルヘルムは、机の上においた書類に目を通していた。


 彼は現在、軍内部の問題で空位となっている東部軍総司令官の代理としておよそ20万もの兵員を誇る東部軍についての一切を管轄している。帝位継承争いにおいて東部軍を掌握することは非常に重要であるとはいえ、帝国東部諸侯領派遣皇帝代理官および帝国東部直轄領特別弁務官として民政においても多くの職務を負っているヴィルヘルムにとってその責務は相応の負担となった。


 そのため、彼が総司令官代理として赴任した直後は、司令部幕僚から懸念の声が相次いだことは言うまでもない。皇帝の権威が絶対的である帝国においてすら非常に扱いにくい存在として、ただでさえ軍内部では煙たがられる皇族の将校であり、そして極めて大きな権限を持って赴任した彼のことを幕僚らが疎ましく思ってしまったことは、至極当然の帰結と言えた。


 しかし、彼らはその評価が間違いであったことをすぐに知ることになる。赴任早々、ヴィルヘルムは民政の傍ら軍内部の綱紀粛正に乗り出した。


 東部軍参謀長であったデロリアス中将を筆頭とする汚職軍官僚らを速やかに排除するとともに東部軍内部で自らを支持する幕僚らを集めてグループを結成し、彼らを使い反発する将校らを軒並み粛清もしくは左遷する辣腕を振るい、赴任後数ヶ月で東部軍司令部からは“不平因子”は一掃された。


 さらにその直後に発生したワラシア貴族共和国との大規模な軍事衝突においては東部軍部隊および各地から集結した帝国軍部隊を指揮下に入れた上で、オストアルマニア軍政国境地帯へと侵入したワラシア軍への反撃作戦を総司令官として指揮。ワラシア軍を国境まで押し返し、逆侵攻を行い国境地帯の数都市を陥落させる大戦果を挙げ、そのまま講和へと持ち込むことに成功した。


 事務上の能力だけではなく軍事的才覚の片鱗を見せた彼は、帝位継承権最上位であり、有力者との繋がりを持つ機会を多く持つ帝都総督の立場という大きなアドバンテージを持つ兄オスカーと並び帝位継承争いのキーパーソンとして注目されている。


「皇子殿下……いえ、総司令官代理閣下。失礼いたします」

「ジェミニ大佐か、どうした」


 ヴィルヘルムは机上の書類から目線を上げ、訪問者――彼の副官を務めるジェミニ大佐へと向けた。宮廷にいた頃は第三皇子付侍従武官としてヴィルヘルムの御守役を務め、ヴィルヘルムの東部赴任において副官として帯同している、彼一番の腹心と言っても良い人物である。


 ヴィルヘルムは軍内部で皇子として扱われることを嫌い、基本的に部下に対しては軍人として扱うように求めており、『殿下』の敬称を使わないように徹底していた。


「中央より、閣下へと書簡が。緊急の要件とのことです」

「中身は確認したのか?」

「いえ、厳封されており、一先ず閣下へと」

「分かった。確認しよう」


 ジェミニ大佐が差し出した封筒をヴィルヘルムは受け取り、すぐに中身を確認する。中に入っていたのは、1枚の手紙であった。すぐに内容に目を走らせる。


 文章は極めて簡潔に書かれており、表面の半分にも満たない分量であった。しかし――


「……これは、想定外だ。を大幅に変更しなければいけないかもしれない」

「閣下?一体何が書かれていたのですか?」

「そうだな……大佐、君にも見てもらおうか」


 ヴィルヘルムはジェミニ大佐に手紙を返した。文面に目を通した彼の表情はすぐに険しいものに変わっていく。十数秒後、ジェミニ大佐は手紙を机に戻し、ヴィルヘルムを正面から見据える。そして、数秒躊躇うような素振りを見せた後、口を開いた。


「閣下、極めて失礼であることを承知した上でお伺いしたいのですが」

「構わん、言ってみよ」

「その……閣下が仕組まれたことでは、ないのですよね?」

「……多分、私が君でも同じことを聞いただろうな。しかし驚いたことに、私は何もしていない」


 ヴィルヘルムは苦笑しながらジェミニ大佐に答える。策謀を駆使して帝位継承争いをこなしてきた彼に真っ先にについての嫌疑がかかるのは、些か彼にとって不本意なことではあるが当然の帰結であった。


 しかし、帝位のためなら遠い親戚を謀殺すること程度なら厭わない彼とは言え、をその対象とするのは流石に憚られるというものである。心情的な面を抜きにしても、あまりにもリスクが高すぎる上に、この時期にを実行するメリットが殆どない。


「では、皇太子殿下が?書簡には帝都に陸軍が既に展開しているとあります。帝都防衛の全権を負っている彼が陸軍を展開する口実とするために、敢えてこのような行動をとった可能性は?」

「それもないだろう。兄上にとっても、何もメリットがない。未だに南部を中心に旗色を明らかにしていない貴族はかなりいる。彼らの取り込みをやる時間を潰してまで、気を逸るほど兄上が戦略眼に欠けた人間であると私は思わない」


 ヴィルヘルムがそう言うと、ジェミニ大佐は意外そうな表情を浮かべる。


「どうした、私が兄上を評するのが意外か?」

「いえ、そのようなことは」

「まぁいい。ともかくだ、想定外の事態となった。大佐、すぐに東部軍司令部の幕僚を召集せよ。計画を練り直さなければならん」

「了解いたしました、閣下。すぐに手配して参ります」


 ジェミニ大佐はそういうと、敬礼して部屋を出ていこうとする。その後ろ姿を見て、ヴィルヘルムはふと重要なことを思い出しジェミニ大佐を呼び止めた。


「あぁ大佐、もう一つ頼みたいことがある」

「はっ、何でしょうか」

「ジェモメスブルクのカルニラ領事に、この書類を」


 ヴィルヘルムはそう言うと、机の中から書類を一枚取り出してジェミニ大佐に渡す。ジェミニ大佐はそれを一瞥した後に鞄に仕舞い、そのまま退室するのであった。それを見送り、ヴィルヘルムは窓側へ視線を移す。


 窓から見えるジェモメスブルクの街並みは、既に暗くなり始めていた。それを眺めつつ、手紙の内容に思いを馳せる。の一人が、皇帝を毒殺しようとした。幸いにも一命は取り留めたようだが、折からの体調悪化もあり予後は極めて悪いという。


 ジェミニ大佐に話したように、ヴィルヘルム自身にも、彼の兄であるオスカーにも、皇帝を毒殺しようとする動機はない。それでは誰が?帝国はその強権的支配故に各地で恨みを買っている。その関連かとも考えたが、しかしそのような人物が宮廷料理人になれるようにはなっていないはず。疑問は尽きない。


 しかし、それよりも彼が心配しなければならないのは最悪の事態――皇帝が仮にこのまま死去してしまった場合のことである。ヴィルヘルムは、彼が管轄する帝国陸軍東部軍や帝国東部諸侯の大半、帝国中枢の官僚勢力の一部、そしてオスカーをよく思わない西部諸侯の一部まで掌握しているが、十全な体制とはまだまだ言い難い。軍部に対して浸透工作は行っているが、それでも帝都オットーブルクの軍中枢の多くはオスカー派である。


 このまま仮に内戦に突入すれば――まず間違いなく、両勢力は拮抗して泥沼になることは必至だ。そうなれば、外国勢力の本格的介入を招くことになる可能性すらある。そして――そこに第三勢力が加われば、それこそ悪夢だ。


 そのためにも、ジェミニ大佐に渡した文書は重要なのだ。そう考えながら彼は窓を離れ、再び書類の山との格闘を始める。やるべきことは、山ほどあった。

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