執務開始

「ふぅ……堅苦しい儀式は疲れるものだな」

「お疲れさまでした、殿下。宰相閣下からこの後執務室までおいでくださいとの伝言を仰せつかっております」


 戴冠式の会場であった宮殿大広間から退出し、ほぉっとため息を吐いた。戴冠が終われば本当に何もしなくてもよかったのだが、あのような場で何もしないと待っているというのは想像以上に体力を使うものだ。


「……取り敢えず、執務室に向かう前に服を変えたいものだな。先に寝室まで戻っても大丈夫そうか?」

「殿下、替えの服をお持ちしております」

「ありがたい。ではさっそk……」

「え、ええええええ!!??殿下、なりません!」


 流石はメイドというべきか、きちんと替えの服を持ってきてくれていたテレノから服を受け取り。上の下着だけでもその場で着替えようとしたら、テレノに制止された。


「え……あ、そう、そうだよな」

「全く……殿下、ここは帝国ではないことをご自覚ください」


 ガルベスにも言われてしまった。……帝国では立場もへったくれもなかったから、自由な生活を出来ていたが、ここではそうもいかないのだな、と実感せざるを得ない。仕方なく、空き部屋を拝借してそこで着替える。


「お待たせ。じゃあ、執務室に戻るとするか」

「あぁ殿下、小官は少し外回りをしてきます故、ここいらで失礼いたします」

「外回り?これから大尉も執務室についてきてもらうつもりだったのだが」


 ガルベスの申し出に、俺は首をかしげる。昨日反乱の鎮定をどうするかという話を途中で切り上げ、それを次の日――つまり今日に持ち越していたはずだが。


「そのことについてなのですが、昨日殿下と別れた後にクルリアス中佐と話を少々致しまして。小官は足で成り上がった身、現場を見なければ気が済まない性分でしてな」

「なるほど。要は資料を見て会議をするよりも、前線に赴いて直接状況を見に行く方がいいと言いたいのだな」

「その通りでございます。帝国から連れてきた兵どもを前線に送らねばなりませぬし、そのついでといってはなんですが直接感じたことを殿下の耳に入れた方が有用かと思いまして」


 ガルベスは士官学校を出たわけでも高等教育を受けてから軍人になったわけでもなく、本当の意味で兵卒から叩き上げで将校にまで成り上がった軍人だ。会議室よりも戦場が肌に合うのは何となく理解できる


 前世で言えば――交番勤務上がりの刑事が、『情報は歩いて聞き込み張って稼ぐもの』って言ってるようなもの……だろうか。


「……分かった。だがそなたは一応皇帝陛下から俺の護衛役を仰せつかってる身だ、なるべく早く戻ってくれよ」

「十分に理解しております。それでは殿下、失礼いたします」

「あぁ待ってくれ大尉、一つだけ言伝を頼む」


 ガルベスが恭しく(というよりわざとらしく)敬礼をして去ったのち、俺はテレノを連れて執務室に向かった。


――――――――――


「……これは?」

「前大公が亡くなられてから、殿下がこの国にお出でになられるまでに溜まった決裁を求める書類でございます。もちろん私どもも出来るだけ処理したつもりではありますが、殿下の御印が必要なものがあまりにも多く……」


 執務室に入った俺が見たのは、机の上にうず高く積み上げられた書類の山だった。軽く数百枚は越えているであろうその山は、これから俺が処理しないといけない仕事量をそのまま表していた。……これ全部読んで決裁しないといけないの?


「もし何か不明なことがあれば、彼女に聞いていただければ問題ないかと。それでもわからぬ時は、私どもを御頼りいただければ」

「……承知した」


 では失礼いたしますと仕事を押し付けるだけ押し付けて退出していくドミトリー伯を見ながら、俺はため息を吐いた。大帝国ともなれば話は別だろうが、小さな公国では君主権が弱いようだ。いや……弱くなっている……のか?


 もっとこう政策に口を出して……とかできると勝手に想像していたが、実態は多分こういう仕事書類決裁が君主の本業で、統治なんかは多分宰相とかの仕事になっているんだろう。そのくせ立ち振る舞いだけはきっちりとしないと来た。


 ……そう考えると前大公ってやっぱりかなりのやり手だったのでは?


「大公殿下、お飲み物をお持ちいたしましょうか?」

「ん?あぁ、お願いしてもいいか」

「畏まりました。何がよろしいでしょうか」

「んー-……」


 テレノに聞かれ、俺は考え込んでしまう。そういえばここに来てから、旅路用に持ってきた水以外何も口に入れてないな……よくぶっ倒れなかったものだ。


「あったかい茶を持ってきてくれないか?」

「茶、でございますか。了解しました」


 テレノが退出した後、書類を眺めながら食について思いを巡らせた。どちらかといえば北に位置する帝都の宮廷で出されていたのは主に燻製の肉や芋、ライという穀物で作られたパンといった保存向きの食べ物が中心だったが、ここチザーレは帝都から見てかなり南に位置する。実際、今は冬に差し掛かりつつあるような時期なのにもかかわらず、かなり温暖なように感じる。


 当然食文化もかなり違うはずだ。口に合うだろうか……


「お待たせしました」

「おや、早かったな」


 5分と経たずにテレノが、カップを携えて戻ってきた。ほのかにだが、柑橘かんきつ系の香りがするような気がする。


「殿下のお口に合うかは分かりませんが……」

「いただくよ、ありがとう」


 恐る恐る差し出されたカップを受け取り、火傷やけどしないように気を付けながらカップに入った液体を口に含む。瞬間、口の中に爽やかな香りがぶわっと広がった。そして、上品な苦みが舌を刺激する。


「果物を絞っているのか?」

「左様でございます。我が国では茶に酸味を持つ果実の果汁を茶に入れて飲むのが習慣となっております」


 案の定だった。慎重に味わいながら飲み干すと、疲れた頭にエネルギーがみなぎってくるような、そんな感じがした。


――――――――――


「……ん?」


 着々と山の嵩減らしている最中、手に取った書類の下に小さなメモがあるのが見えた。床に落ちたそのメモを取ってくれるようにテレノに頼み、渡された後に内容を見た。


『…公……任を…止することに失……た。第二……の実………準…をする』

「なんだ、これ?」


 パッと見、何かの連絡をするためのメモに見えるが、ところどころインクがかすれており全部の文字は読めない。


「いかがなさいましたか?」

「いや、こんな紙があってさ」

「拝見します。……これは、宰相殿の筆致ひっちでございましょうか」


 テレノに見せたところ、これはドミトリー伯が書いたものらしい。とはいえ、掠れた部分が判読できるわけでもなく……殴り書きしているようなので、そこまで重要なものではなさそうだが、一応内容を頭に入れた上で机にしまっておく。


「『沿海特区への補助金の減額』・『商工業者の自立を目指した補助金制度の見直し』……」


 前大公が商業重視の政策を取ったとは思えないほど、商人に対して冷たい政策が多い気がする。確か最終的に政策を大公に持ってくる形にするのは宰相の役目だったはずだが……


 個人的には、軍を用いた強制収用のようなやり過ぎな面は抜きにして、前大公の方針を引き継ぐのがベターな選択だと思っているので、こういった政策の決裁は一旦保留に回すことにした。前大公は帝国からの支援を多大に受けていたと聞くし、恐らくは皇帝陛下の意向に沿うのもこっちの方針だろう。


 そう考えながら、俺はまた新たな書類に手を伸ばした。


 結局、保留を含めて積み上がった山が机から消え去るのは、その日の夜だった。

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