アネモネの青

ねあ

短編小説 アネモネの青



 かすかに頬を掠める風が、彼女の香りを運んでくる。この季節になると、今でも目から熱いものが溢れてくる。私の輪郭に沿って流れる涙を拭うように、風が、青い風が。


 青、めぐる血の青。海の青。いつか君がいった言葉は、僕を大きく変えてしまった。どこか偏屈で、それでいて潔い君を、僕は今でも忘れられない。


「ねえアネモネって知ってる?」

僕の顔を覗いたその大きな瞳に、まるで海が反射しているかのような澄んだ青を感じた。

「花ってことぐらいは知ってる。見たことないけど、、、」

そう返すと、君はどこか満足そうな顔で、

「私ね、アネモネの青が一番好きなの。」

と言った。

 僕の意識は君以外に興味はないようで、開いていた英単語帳を静かに閉じて、仕方なく鞄にしまった。毎回君は、僕の勉強の邪魔しかしなかった。それでもいいと思っていた。穏やかな優しい風を突っ切って進む電車の窓から、等間隔に現れる電柱を目で追っていた。

「終点、大森ヶ崎〜、大森ヶ崎〜。お出口は左側です。」

僕が通う高校は、家から電車で30分、そこから川沿いを歩いて15分の小さな丘陵の麓にある。君とは小学生の頃から同じ電車で通学していた。幼馴染ってやつだ。いつからかは憶えていない。でも高校2年の夏まで、いや実は今でも、僕は君が好きだ。制服のスカートを少し短めにした君の後ろ姿は、瀬良川との相性がとてもいい。町に流れる唯一の一級河川は、君のために流れていると思えるほどだ。手首に光る桃色の結城紬のミサンガは、きっと一生切れないのだろう。


「ねえってば!」

「何、聞いてるよ。」

「明日心捧祭り行くよね?」


祭りは好きだ。あの賑やかな香りは中毒性がある。

「花火が8時からだから、えーっと、7時駅集合で!」

わかった、と静かに返事をして、君に背を向けて家の扉を開けた。



 七時を少し過ぎて駅に着いた。1分前に電車が出発したばかりだった。

「もうどうすんのさ、次の電車30分後なんだけど!」

少しムッとした顔を見て何故か笑いそうになってしまった。マスクをしていてよかったと心底思った。

「ほんとごめん。」

「悪いと思ってるならアイス買ってきてよ、ね?」

 2年前にばあちゃんからもらった黒革の財布から、たった一つの500円玉が消えた。ホームのベンチで、たったさっき買った120円のアイスを食べた。やっときた電車は、浴衣や着物姿の人で溢れかえっていた。


 改札を抜けた頃には花火はもう始まっていた。神社の階段を登り切ったところで、歩くのをやめて空を見上げた。祭りの会場まではまだ距離があって、光も人も少なく、かえって花火が映えて見えた。瀬良川は光を反射するのに忙しそうだった。

「来年は絶対最初から見ようね」

 息を整えきれていない君が言う。横目でチラチラと、バレないように見ている僕の心配をよそに、君は花火に夢中なようで、少し寂しく感じた。

「来年生きてたらな。」

「またそういうネガティブなこと。だから彼女できないんだよ。」

「誰のせいだと思ってんだよ、」

 僕の自信のない一言は、最後の一番大きな花火の音にかき消された。遅れて咲いた淡い赤色の巨大な花は、しばらくして落ちて消えていった。

「あっ、あの色好き!」

「お前好きな色多すぎないか?」

「暗い色は好きじゃないかな。」

「だから嫌いなの?ナスとか。」

「い、今は食べれるもん!」

「幼稚園の時のやつはまじで、、、」

「それ以上言うな!!!じゃないともうお弁当の卵焼きあげないよ!」

 きっと僕は、数えきれないほど多くのものを、君からもらってきたのだろう。


 花火の後は会場でお祭りを楽しんだ。最後に余った三百円でヨーヨー釣りをした。青とピンクを同時に釣り上げた。ふと“アネモネの青”が好きという言葉を思い出した。僕は少し浮かれて、青い方を君にあげた。

「青、好きだろ?」

「あ、ありがと」

少し空いた間と、君の顔が一瞬曇った理由を、僕は深くは考えなかった。


 家の前まで来てから、不意にこれまで隠してきた気持ちを言ってみたくなった。

「なあ、おれ、お前が好きだ。」

 話すのは得意な方ではないが、ここまで気持ちを表現できたことに少し感動した。

「私も好きだよ?京也のこと。」

「それは友達としてだろ?俺はもう無理だ。これ以上我慢できない。」

 上がる心拍数を宥めるように風が過ぎていく。上がった体温を下げようと、沸々と汗が滲んでくる。

「ちょっと、考えさせて。」

親指の爪を人差し指で触りながら君がいう。僕の恋が実らないのは明白だったが、それでも少しの望みをかけて、

「わかった。おやすみ。」

と言った。


 翌日もその翌日も、丸三日間会話がなかった。思えばこんなに話さなかったのは、知り合ってから初めてのことだった。その間の、時間の進みがやけに遅かったのを覚えている。1秒が1分に、1分が1時間に思えた。


“返事、聞かせてくれ。”

7月26日。久々にうったメッセージにはしばらく既読がつかなかった。


7月27日、土曜日。君が死んだ。交通事故でトラックに撥ねられたらしい。


 

 僕は今、お前の墓の前にいる。しばらく、というか今も、いまだに理解が追いついていない。どんな感情も、じっと動かず、息を潜めているようだ。ここ一週間何もできなかった。五感の全てが機能するのをやめ、涙すら出なかった。心の真ん中を瀬良川の底に置いてきてしまったようだ。

「京也か。」

低く聞き覚えのある声が頭の後ろの方で聞こえる。彼女の父だ。

「俺、好きだったんです。こんな時に言うことじゃないですけど。まだ高校生ですけど、絶対幸せにしようとおもってたんです。おじさんに反対されても、絶対突き通すつもりでした。」

「今更だな。そして、もう遅いぞ。」

彼は悲しそうに言った。

「お前、うちの娘に告白してたんだな。」

「聞いたんですか?」

「いや、ラインの通知見たんだ。返事まだかってやつ。」

「返事聞きたかったんすけどね。」

そう無理に笑ってみせると、ガサゴソと鞄の中を探り始めた。そして桃色のケースがかわいい彼女のスマホを渡してきた。彼女の父は少し悲しげに笑を浮かべていた。

「これ、パスワードわかるか?」

「はい」

そう言って僕は彼女の好きな俳優の誕生日を暗証番号の欄に入れた。




僕とのラインの画面が表示された。

“返事、聞かせてくれ”

そして打ちかけの文が送信されずにあった。




“これからは恋人として、よろしく!!!”




 目の前の景色がぼやけ始めた。無くしかけていた感情がいっきに溢れでて、その場に膝から崩れ落ちる。頬を絶えず熱いものが流れてきた。落ちた思いが乾いた小石を伝って地面に消えていく。悔しくて、悲しくて。


 それから一年が過ぎ、受験で忙しくなってきた頃。ふとアネモネがどんな綺麗な青い花なのか知りたくなった。ところが、いくら探しても、桃色のアネモネしか見つからなかった。そして気がついた。彼女が好きだった色は青なんかじゃない。あのミサンガの、あの花火の、あのスマホケースの、桃色。アネモネの桃色、いや彼女にとってそれは、青色だったのだ。それなら僕は、もう一つのヨーヨーをあげるべきだったのだろう。


 今でもよく悩んでしまう。彼女は返信の途中で事故に遭ったのだろうか。それともうってから、送らずにいたのだろうか。今となっては分かりようがないことを、延々と考えた。だからもし会えたなら、こう聞いてみたい。


「青(せい)、お前は結局、あれを送る覚悟があったのか?」


 青。めぐる血の青。海の青。そして、アネモネの青。いつか君がいった言葉は、僕を大きく変えてしまった。どこか偏屈で、それでいて潔い君を、僕は今でも忘れない。


「ねえアネモネって知ってる?」

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