第5話 苦痛と恐怖の先にいたのは魔女

 真夜中のことだった。

 譲治は流刑地まで鉄の馬車で運ばれていたのだが、崖際を進んでいると大風に大雨というとんでもない天候で立ち往生。


 その内崖崩れが起きて、譲治は崖下まで落ちてしまった。

 大怪我をしながらも逆さになった馬車から這い出て、地面に転げ落ちる。


「う、うぅ……う゛ぅ……ぅ゛」


 怒りとも悲しみともわからない表情の彼の目から、止めどない涙が流れ出ていた。

 もうどこにも帰る場所がないという絶望が、譲治の中で嵐のように駆け巡っている。


 止めたくても止まらない嵐は、涙となって大地に零れ落ちていった。

 雨に交わり、川の流れとともに下流へと。


 真っ暗で周りがほとんど見えない。

 明日の日差しもどこからくるのか。


 川の流れに沿って進んでは見るが、左足の痛みが凄まじく思うように動けない。

 回復魔術は使えたが効果は雀の涙ほど。


 壊れた心と、無限にも感じる寂しい時間を埋めるには至らなかった。

 極度の疲労が身体を鉛のように重くしていく。


 そんなときだった。

 もう歩けないと膝をついた際、目の前に妙な甲殻類がいた。


 ハサミをカチカチと鳴らす蟹型のモンスター。

 クラスメイトから聞いた話によると、水辺にはこういった雑魚モンスターが現れるというのだ。


 レベルは8~10程度。

 手慣れた冒険者であれば歯牙にもかけない。


 だが、譲治は戦闘経験などまるでない僧侶クラス。

 【レベル3】という最弱を極めている。


 譲治の肌が恐怖で泡立つ。

 なにしろモンスターを見るのは初めてだ。


 譲治の存在を知らせるように、蟹型のモンスターはハサミを鳴らし続ける。

 すると、ワラワラと暗闇と岩の隙間、そして漆黒の水面から仲間が這い出てきた。


 同じようにハサミを忙しなく鳴らしながら、譲治に近づいてくる。

 口をパクパク、ハサミをカチカチ。


 譲治を餌と認識した蟹型のモンスターの群れは、ワラワラと動きの鈍っている譲治に襲いかかってきた。


「うわ、く、来るな……来るなぁああッ!」


 必死に腕を振り回す。

 だがそんな抵抗など意に介していないかのように、譲治の身体に群れで圧しかかった。


 甲殻類特有の感触と生臭さが、さらに不快感を誘う。

 腕を振り回し、モンスターを振り払おうともがくが、レベル3の腕力などたかが知れていた。


 刺々しい足が傷ついた身体を突き刺し、ハサミが肉を斬り裂こうとする。

 その痛みは尋常でなく、これまで人生で上げたことのないような叫び声を暗闇と雨の中に響かせた。


「う゛わ゛ぁ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ! う゜あ゛ぁあ゛あ゜ぁあああッ!!」


 眼前でカチカチと不快な音が鳴り響く。

 身体にダメージが蓄積していき、その数値も限界へと近くなっていった。


 譲治は生存本能を爆発させて、この場を切り抜ける。

 火事場の馬鹿力とでも言うべき俊敏な動きで、ひたすら駆け抜けていった。


 自分が今西へ向かっているのか東へ向かっているのかすらもわからない。

 ただひたすらに走ることで、すべてのことから逃げようと必死になっていた。


 何度転んだかもわからない。

 何度ぶつかったかもわからない。


 もう動けないところまできたときには、完全に左足はダメになっていた。

 感覚がなく、あのモンスターにいくらか食われたのか出血が激しい。


 無理に走ったせいで、足としての機能を失っていた。

 関節が曲がっているどころか、引き千切れていたのだ。


 雨はまだずっと降っていたが、夜が白み始めたのはわかる。

 目の前に広がるのは、死の気配が漂う荒原だった。


 もしかしたらここが最果ての荒原【魔女の方舟】なのかもしれない。


 モンスターの気配を感知するが、譲治には対抗する術などあるはずがなかった。

 寒さと空虚に震えながら、虚ろな足取りで前へ進む。


 もう進むくらいしか自分にできることはなかったからだ。

 血の臭いでモンスターがやってくるだろう。


 拾った朽木を杖代わりに進んだが、折れたところでもう力尽きた。

 仰向けに倒れて暗雲の空を見上げる。


 雨は降り、雷は轟き、風は吹く。

 自然の容赦のなさに体力を奪われながら、朧げな意識の中で思い出にふけっていた。


 生まれてから、今日に至るまで。

 悲しい思い出よりも、温かで楽しい思い出ばかりだった。


 悲しみの涙が流れ、憎しみによって引火する。

 その炎は怒号として吐き出され、天へと響いていった。


「ああああああッ! あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」


 身をしきりに捩じらせ、腕をばたつかせる。 

 大地に拳を叩きつけ、自らの境遇を呪った。


 なぜこんな目に合わなければならなかったのか。

 これ以上自分はなにを失えば救いは訪れるのか。


 一体なんの恨みがあってあのクラスメイトたちはこんな報いを受けさせるのか。

 溢れ出てくる彼らへの止めどない憎悪が、殺意となって慟哭と舞う。


 この無力に怯える魂の奥から響く慟哭に、答える者はいなかった。

 代わりに現れたのはこの地に住むモンスターたちだ。


 レベルはゆうに500を超える強いものばかり。

 譲治など完全な餌だ。


「はは、ははは……やれよ。どうせ全部終わりだ。お前らからしたら、どうせ俺なんて下らねぇ餌にしか思ってないんだろ? やれやぁあッ!!」


 怒りは恐怖を薄れさせる。

 譲治は鬼のような形相で歯を食いしばって、モンスターに食われるのを待った。


 モンスターが口を開けて譲治を食べようとした直後、まるで異変を感じ取ったように身体を震わせ硬直する。

 そして悲痛な鳴き声を上げながら、譲治を放っておいて走り去ってしまった。


「な、なんだ? どうなって……」


 仰向けからうつ伏せへと向きを変え、這うようにして周囲に注意を払う。

 雨音が響く中、譲治は不気味な女の声を耳にした。







「ハァイ、譲治ィ」


 どこからともなく聞こえてきたその声の出所を探る。

 雨と靄(もや)で前方がよく見えない。

 だが、雨降る荒原に似合わぬ陽気な声はしきりに譲治を呼ぶ。


「こっちだ譲治ィ。あー無理すんじゃねぇ。オレのほうから行くから」


(どっちだ? どっちから声が)


 無理をするなと言われたものの、譲治は声のしたほうを探りながら這って動く。

 天の救いの声か、それとも死神の喜ぶ声か。


 どちらかはわからないが、譲治からすればようやく出会えた会話のできそうな相手だ。


 なぜ名前を知っているのかはわからないが、もしも死神であるのなら知っていてもおかしくはないだろう。


 進んでいくと、ぼんやりとだが人の形をしたシルエットが浮かんでいるのがわかった。

 

「……一体、誰なんです? どうして俺の名前を?」


 雨と泥に顔を濡らす譲治は息を切らして止まりながら、シルエットの人物に問いかける。

 

「オレはここに住んでいる魔女さ。魔女はなんでもお見通しだ。過去は勿論遥か未来まで。この世界や、お前さんらのいる地球のこともな」


 乱暴でガサツな言葉遣いの"魔女"と名乗る女は、シルエットを揺らしながらせせら笑う。

 まるで他人の不幸を見て喜んでいるかのような不快な態度だったが、不思議と嫌悪感はわかなかった。


 かわりに訪れたのはもっと別の恐怖。

 触れてはならない、知ってはならないものに近づいてしまったという、本能の奥底の遥か深淵からくる警鐘。

 だんだんと意識が朦朧としていく中で、譲治は疲弊と悲哀に満ちた笑みを零す。


「魔女……? ははは、死神と思ったら魔女か。なるほど、魔女の方舟だもんなここは。……姿を、見せてもらえませんかね? 俺はこのとおり、左足のない死にぞこないだ。アンタがどれだけ恐ろしい存在かわからないが、一目見ておきたい。地球のことを知ってるのならなおさらだ。あとは好きにしてくれ」


「気の早い奴だなぁ。まぁいい。オレがどんな存在なのか、その目で確かめろ」


 そう言って魔女は歩み寄ってくる。

 見える位置まで来たとき、譲治は一瞬にしてその美しさに目を奪われた。


 褐色の肌に銀色の髪、銀色の踊り子衣装をまとった若い女。

 艶美な肉体の曲線は抜群のプロポーションを確立しており、エキゾチックな雰囲気は雨に濡れてより美しく映える。


 だがこの外見的美しさ以上に感じ取れたのは、もっとおぞましいものだった。

 これは美しい女の姿をしたなにかであると。


「改めまして、オレの名は《アルマンド》。報復と慟哭を司る魔女だ。お前さんの慟哭と憎しみの意思に馳せ参じた」


「俺の、慟哭と憎しみに?」


 譲治がそう呟いたとき、視界に膜が張りついたように朧気になり、彼女の足元を最後に途切れた。

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