店の外に出ると、彼女は往来の隅にある植木の横に気まずそうな顔をして立っていた。

「その……さっきはごめんなさい」

「お会計ですか? お礼ですからいいですよ」

 私はわざと話を逸らした。無駄に明るく振舞って重い空気を晴らそうとした。上手く笑えているかはわからない。

「そうじゃなくて、さっき、無神経でした……変なこと聞いちゃってごめんなさい。この前、あんなことあったのに……」

 彼女は伏し目がちに力なく謝る。駅のホームで私を助けるほどの正義感の持ち主であれば、確かに自責の念が強くなるのかもしれない。肩を落とした、自分より数センチ背の低い彼女はとても弱く見えた。自分が彼女をいじめているように思えて、居心地が悪くなる。

「いいんですよ。気にしないでください。先日もたいしたことじゃなかったんです」

 私としてもわざわざ触れてほしい話題ではない。話を変えてしまいたいし、できることなら彼女と今すぐに別れてしまいたい。この気まずい空気をどこまでも引きずりたくはないのだ。

「じゃあ帰りましょうか。さっきのお店美味しかったですね。ほらあの肉料理の――」

「本当に大丈夫なの?」

 不自然なほど饒舌な私の言葉を遮る。予想以上に大きな声だったので、往来の通行人もこっちを振り返った。

「なんですか? もう私は大丈夫ですって。本当にたいしたことじゃないんです」

 せっかく話を変えたのに無理に戻されて私は腹が立つ。もうやめて欲しい。私は別に傷ついてはいないはず。適当に笑って受け流してくれれば、こちらとしても楽だ。それなのに勝手に私を憐れに思って謝らないでほしい。私の欠陥を嫌でも意識させられるではないか。

 私の願いとは裏腹に、彼女はぽつぽつと続けた。

「ごめんなさい。でもたいしたことじゃないって、どうでもいいって、言わないで……お願い」

 縋るような目で見つめられる。ぎょっとして、言葉が出ない。

「だって、あんなに苦しそうだったじゃない。何か……理由があるんじゃないですか? 自分で気付かないうちに、傷ついていくことだって、あるから……」

 私には彼女の意図が分からなかった。同情しているのだろうか。泣けば許されるとでも思っているのだろうか。助けてもらったとはいえ、つい先日知り合っただけの他人だ。仮に辛かったとしても、なぜ彼女にそんなことを言われなければならないのだろう。

 彼女は今にも泣きそうだった。それでも、悲しみに歪んだ顔は変わらずに美しかった。私にはそれが少し憎らしく思えた。彼女に私の惨めさがわかるものか。

「もうこの話はなかったことにしませんか? あなたには関係ないでしょう。知ったような口をきかないでください」

 冷たく、吐き捨てるように言い放った。怒りからこぶしをぎゅっと握る。渡しそびれたハンカチの入った紙袋が、ぐしゃりと音を立てた。

 彼女はついに目元からぽろぽろと涙をこぼした。小さな肩が小刻みに震える。泣きたいのはこっちの方だ。自分の醜い部分を否応なしに意識させられ、同情された。悔しくて、腹立たしくて、虚しい。ぐっと奥歯を食いしばり、気持ちを静める。私まで泣いたら負けだ。渦巻くどす黒い感情の処理方法を私は知らない。顔を手で覆って泣き続ける彼女を、ただ呆れながら眺めた。

 いつの間にか往来の人はめっきり減り、辺りは静まり返っていた。私の心もだんだんと凪いでいく。

 しばらくして、彼女は涙をぬぐいながら顔を上げると、再び私の目をまっすぐ見た。

「私、迷惑でしたね……でも、もう少し自分のことを大事にしてほしかった」

 すっかりくたびれた私は、気の抜けた相槌しか打てなかった。

「そうやって大丈夫って取り繕っても、実際、中身はぼろぼろになっていくものだから……知り合って間もないけど、心配なの」

 図星だった。取り繕っていても、限界はある。だからこの間も駅であんなことになったのだ。それでも、彼女に突きつけられるのは癪に障る。頭には血が昇って、喧嘩腰で喋る。

「心配されても……それで私が男の人を克服できるわけでもないですし」

「でも人に話せば気持ちが軽くなるかも」

「話すようなことじゃないです。こんなこと誰にも言ったことないですし。私、結構酔っているみたいです。もう今日は――」

「たいしたことないんだったら、この間みたいにあんなに苦しんで、泣いたりはしないでしょう」

また言葉を遮られる。苛立ちはふつふつと沸き上がり、どんどん抑えられなくなる。

「もう、やめてください。ただちょっと昔に嫌なことがあって、それを思い出しただけです。しばらくすればまた忘れます」

 彼女の言葉に対して冷静さを失った私は、ただ怒りに任せて言葉を吐いた。なぜか目には涙が浮かんでくる。慌てて下を向いた。こんなに感情的になって泣いてしまうなんて、心身共にギリギリのところにあったのだろうか。

 涙とともに、心の奥底にしまい込まれていたドロドロとしたものが、堰を切ったように口から溢れていく。

「だって、本当に些細なことだったんです。小学生の頃、放課後に、教室には私と一人の男子だけがいて。他の生徒はどうしてか誰もいなくて。隣の席に座って適当な話をしていただけでした。

 でも、だんだんおかしな雰囲気になってきて……何を考えているのかわからないというか、受け答えがおかしくて。それで、どうしたのって聞いたら、何でもないって言うんです。そうやってふわふわと会話し続けてたら……ふとその子の、あの人の手が、私の……太ももに触れたんです。気のせいかなって思ったけど、気のせいじゃなくて。さすられて、撫でられて……気持ち悪くて、怖くて、声も出なくて。

 結局、教室に人が戻ってくるまで私はそのまま、ずっと……そこから男の人が苦手になって。でもこんなこと、家族にも誰にも言えなかったんです。ひとりで、ずっと男の人を避けるような生活をしてました。そのおかげか、大学生の頃には少しだけマシになってたんです。

 でも、就職してからは……飲み会があったんです。上司が私の隣に座ってて。前からちょっと苦手だったけど、新入社員の私は頑張って相手をしたんですよ。そしたら、足を触られて。上司は何もないような顔をしながら、部下に自分の武勇伝を語るんです。

 怖くて、憎くて、忘れかけてた小学生の頃のことまで思い出して。その場で私、大泣きしちゃったんですよ。みっともなくて、恥ずかしくて……辛かったんだと思います。結局このことも誰にも言えなくて、私はすぐに仕事を辞めました。

 しばらくはおかしな夢にうなされたり、眠れなくなったりして。完全にダメになっちゃって。でも、なんとか一、二年をかけて落ち着いて、去年新しい仕事に就いたんです。また前と同じように苦しみ続けるのは嫌なんです……早く忘れないといけないんです……」

 気が付くと誰にも言えなかったことを、ゆっくりと、しかし順を追って確実に話していた。いつの間にか涙は枯れて、目がじんじんと痛んだ。一人で喋り続けていたことにはっとして、顔を上げる。

 彼女は大きな目をさらに大きく見開き、口を小さく開けていた。今、彼女はどんな気持ちなのだろうか。私が突然語りだしたことへの驚きか。それとも返答への迷いか。なかなか彼女が反応を見せないせいで、急に私は恥ずかしさを覚えた。耳が熱い。なぜこんなことを赤裸々に語ってしまったのだろうか。

「つい最近知り合ったのに、話し過ぎましたね。こんな変な話は面白くもないでしょう」

 必死に口角を上げて軽い雰囲気を装い、尋ねる。彼女は戸惑い、視線をそらして、口をもごもごと動かした。それから、小さく一歩私に近づいてじっと目を見つめた。

「まずはごめんなさい。こんな話させちゃって。それと……話してくれてありがとう。その、私……上手く言えないけど、何か助けになりたいの。助けなんていらないのかもしれないけど、話し相手でも、友達でもいいから……」

 なぜ、彼女が私にこんなことを申し出るのかはわからない。それでも、憎悪と恥でがんじがらめになっていた私の心が、じんわりと熱を帯びて和らいだような気がした。ちょっと優しくされただけでこんなになるなんて、私はかなり単純な女なのかもしれない。涙は枯れたはずなのに、目頭は熱くなる。胸がいっぱいになって再び俯き、自分の腕で自分を抱きしめる。ハンカチの入った紙袋はもうぼろぼろになっていた。

「少しだけ、触れてもいい?」

 彼女が尋ねる。声には逡巡が表れていた。

 人と触れ合うことはずっと苦手だった。学生時代は女子特有の距離の近さに悩まされたこともあった。しかし今は、どうしようもなく誰かを欲していた。

 私はこくりと首を縦に動かす。すると彼女はゆっくりと両手を伸ばして、私の肩に置いた。身体を支えられて救われたときように、私は彼女の手によって安心を得る。それでもまだ心臓はすうすうとして、寂しさは埋まらない。私は半歩彼女に近づく。

「あの……抱きしめて、もらってもいいですか」

 俯いたままで小さく呟く。思ったよりすぐ近くに彼女の気配を感じる。首をかしげて私を覗きこんだ彼女の前髪がさらりと動いた。

「本当にいいの?」

 私はもう一度、頷いた。すぐに彼女の腕がするりと背中へ回る。私は自分の腕をほどき、下へだらりと垂らす。カバンは肩からずり落ち、紙袋は地面に落下した。

 誰かに抱きしめられるのは幼い頃以来だった。ぎゅっと、心地のよい圧力が身体を包む。柔軟剤のような優しい香りが鼻孔を満たし、うっとり目を閉じる。

「大丈夫、私がいるから」

 そうささやいて、彼女は強く私を抱いた。

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