清く、正しく、美しく

川上 踏

 彼女は清らかで、正義感があり、何よりも美しかった。私はどんなときでも彼女を探している。出勤しているときも、無機質なアパートでひとり食事をするときも、プロポーズされたときも。いつか、どこかでまた会えるのではないか。薄い望みを抱きながら、私は生きている。



 定時で仕事を切り上げて、勤め先から駅まで約五分の道のりを歩く。まだ月曜日なのにどっと疲れが込み上げてくる。きっと人間は八時間も労働できるように造られてはいない。その証拠に退勤後の身体はあらゆるところが痛み、脳はまともに働いていない。早くベッドで横になりたい。そんなことだけを考えながら、駅前の繁華街を通り過ぎる。

 今の会社には派遣社員として一年ほど前から勤めている。事務作業が主で責任もほとんどないので気楽なものだ。それでも、長時間パソコンに向かうことが多いために肩こりや腰痛は酷いし、脳が消費するカロリーは意外と大きい。前職は営業だったので動き回ってくたくたになることが多かったが、座ってばかりの仕事もそれはそれでくたびれるものだ。

 婚活アプリを宣伝するビルの看板が目に入り、ふと昨日の式が思い出された。昨日はふたつ下の妹の結婚式に参列した。幼少期から勝手気ままな性格で、「結婚せずに気楽に生きたい」と言っていた妹も、純白のドレスに身を包んだ立派なジューンブライドになっていた。相手は大学の同級生で、世渡り上手そうな愛想のいい男。五年の交際を経て、彼の海外転勤を機に結婚を決めたらしい。新卒での就職と同時に一人暮らしを始めた私は滅多に妹に会っていなかったので、結婚することもつい最近になって突然知らされた。

「早くお姉ちゃんも幸せになりなよ」

 結婚を報告するときに妹が放った何気ない言葉は、喉に刺さった小骨のように私に引っかかっている。

 私たち姉妹は早くに父を病気で亡くし、女手一つで育てられた。温かい家庭ではあったが母は看護師として働いて家にいないことが多かったので、父なるものへの憧れは人一倍強くなっていった。私たちは父が欲しいとも結婚したいとも口にはしてこなかったが、心のどこかでは父と母がいる一般的な家族を欲していたのだろう。こうして、結婚して家庭を築くことがある種の絶対的な幸せである、という価値観を姉妹で共有していた。きっと妹はそういうことで、早く幸せになれと私に言ったのだろう。

 私も、幸せになりたいとは思う。自分を愛してくれる人と楽しい家庭を持って、一生を添い遂げるなんてロマンチックだ。なにより最近になって急に自分の人生が虚しくなり、ひとりで死ぬことが怖くなってきた。結婚したいという願望は十分にある。

 それでも、私には問題があった。男性が苦手なのだ。男性が苦手なせいで、結婚という夢は宙ぶらりんになり、ずっと静かに心の中を漂っていた。妹の結婚は、そんなちぐはぐな状態を私に突きつけ、気持ちの歪みを大きくさせた。胸のなかに生じたモヤモヤは時間とともに広がり、今もなお燻っているのだ。



 駅の耳ざわりな構内放送で現実に引き戻される。アナウンスが早口なうえに周囲はざわついているため、何を言っているのかは全く聞き取れない。あたりを見回すと、ホームはいつしか人であふれかえっていた。そういえば、時刻になっても電車が現れていない。いつもの電車はこの駅が始発で確実に座れるので、満員電車が苦手な私はかなり助かっていた。遅延でもしているのだろうか。

 混雑と、梅雨のじめじめとした空気で少し気分が悪くなる。自分の後ろに並んでいる老いた女性も、ふうっとくたびれたように息を吐いた。

 自分の前で電車を待っている、三人の男子学生の話が聞こえてくる。

「さっき、隣の駅の線路に人が飛び込んだらしいよ。自分から行ったらしい」

「マジかよ。俺たち帰れねぇじゃん」

「こんな時間に人身事故かよ。自殺するにしても空気読めよな」

 どうやら人身事故で電車は止まっているようだった。自殺するくらい追い詰められていたら空気を読む余裕なんてないものだ。そう彼らに言ってやりたい気持ちをぐっとこらえる。運行再開までにはかなり時間がかかるとのアナウンスがかかると、人々はぞろぞろと改札へ向かいだした。前にいた男子学生たちに続いて、ホームから出るためのエスカレーターへとゆっくり歩みを進める。不機嫌な人波に流されるようにしてふらふらと足を動かした。

 エスカレーターも目前のところまで来て、ふと下半身に違和感を覚える。スラックスの上から太ももに何かが触れ、背後から撫でられている感覚。この感覚を私は知っていた。忘れていた、忘れようとしていた、忌まわしい感覚。痴漢だ。

 自覚すると気持ち悪さは増幅し、身動きが取れない人ごみのなかで吐き気が止まらなくなる。背筋には冷たいものが走る一方、目頭はじわじわと熱くなり、今すぐにでも泣き出してしまいそうになる。嫌悪と恐怖で身体は硬直する。声も出ない。それでも、何か少しでもいいから動かなくてはいけない。このままやられっぱなしになるのではなく、抵抗しなくては。

 ぎこちなく振り返るとそれまで私に触れていたものはすんなりと離れていった。背後には眉間にしわを寄せたスーツ姿の男性。でも彼がやったという確証はない。私の右にいるラフな格好の男性かもしれないし、左にいる若い女性かもしれない。疑心暗鬼になってきょろきょろと周りを見回す。鳥肌が立って、血の気は引き、呼吸は浅くなる。怖い。呼吸は不規則になり、うまく息が吸えない。

 記憶の奥底に封じ込めていた恐ろしい光景が、だんだんと脳裏によみがえってくる。やけに騒がしい居酒屋。酒とたばこの臭い。いつもの武勇伝を話す上司。脚に触れる上司の大きな手。気持ちが悪い。でも周りは見ていないし、みんな気付かないふりをしていた。せっかく忘れていたのに。やっとまともに生活できるようになったのに。

 吐き気は増すばかり。でも、こんなところで吐いてはいけない。必死に口元を抑え、周りの人々に悟られないよう下を向く。脂汗は止まらないが、暑いのか寒いのかはよくわからない。あらゆる努力も虚しく気分は回復せず、吐き気とともに記憶も引きずり出されていく。

 ああ、小学生の頃から男という生き物が苦手だった。放課後の誰もいない教室で、同級生に身体を執拗に触られたときから。嫌だと言わなくては。逃げなくては。そんな目で私を見ないで。その手を離して。逃げたいのに、金縛りにあったように動けない。早く止めて。誰か、誰でもいいから助けて。

 完全にパニックに陥り、立っていられなくなる。膝に力が入らない。前屈みになり、足元を見つめることで必死にやり過ごそうとするが、視界は涙で滲んでいく。どうしよう。こんなところで泣いてはいけない、負けてはいけない。こわい。きもちわるい。いやだ。だれか―――

 その瞬間、私の身体は何者かによって抱き留められた。よろめいた私を、同じくらいの背格好の女性が支えていたのだった。

「大丈夫。大丈夫だから」

 彼女は言い聞かせるように呟く。腕のなかは心地のよい優しさがあった。清涼感のある爽やかな香りがする。

 だんだんと冷静さを取り戻すと、この状況の異常さに気付く。焦って体勢を戻し、顔を上げた。人ごみはすっかりなくなり、ホームに残る数人も私たちを避けてエスカレーターへと消えていく。私の左腕を支えるその女性は戸惑ったような、心配するような表情でこちらを見ていた。

「ああ、すみません。ごめんなさい」

 掠れた涙声でなんとか答える。

「あの、大丈夫ですか? 歩けます?」

「はい、だいじょう――」

 脚に力を入れても膝が震えて動かない。きっと彼女が腕を離したらその場に座り込んでしまうだろう。それを察したのか、彼女は腕に力を入れてしっかりと私の身体を支える。

「腕、嫌だったら言ってくださいね。他人に触られるのが苦手なら離しますから」

 人に触れられるのは苦手だ。でも、彼女は嫌ではなかった。むしろ安心感があり、落ち着く。彼女には申し訳ないが、しばらくは支えてもらわなければ身動きがとれなさそうだ。膝が中途半端に曲がった、腰の引けた状態で見上げると彼女と目が合った。互いに無言で見つめ合っているとにこりと笑いかけられる。いつの間にか涙は止まっていて、クリアな視界から見た彼女は、息をのむほどに美しかった。

 丸くて存在感がある目。鼻から下は細い線で描かれたようにすっきりと整っている。凛とした印象だが、笑うと愛らしい。艶のある黒くて長い髪は、白い肌を引き立たせていた。美しくて可憐な姿は女の私でも見とれてしまう。きっと私の化粧はぐちゃぐちゃで、見るに堪えない顔をしている。そのことが急に恥ずかしくなって俯いた。

「あれ、大丈夫? まだ気分悪いですか?」

「いや、大丈夫です」

 醜い自分への恥ずかしさと美しい彼女への緊張から、ぱっと腕を離す。下半身はなんとか自立できるまでに回復していた。それでも自分の身体の一部ではないような感覚がする。自分だけ腰から下が地面に固定されているみたいだ。

「良かった、ひとまず立っていられそうですね。私、お水買ってきますね」

 そう言うと、彼女はエスカレーターと反対方面にある自動販売機へと小走りで向かって行った。だんだんと脚の感覚が戻ってきた私はなんとか歩みを進め、二メートル先のベンチに腰掛ける。暗くなったホームには白いLEDが注いでいる。清楚な白いワンピースを着ていた彼女はライトに照らされて闇に浮かび上がり、神々しささえあった。まるで天使か女神のようだ。

「お水買ってきましたよ、飲んでくださいね。脱水症状になっちゃいますから」

 手渡されたペットボトルはひんやりとしている。最悪の状況から一転、ここまで優しくしてもらえるなんて。彼女の親切が身に沁みる。再び涙が出そうになるのを、水を飲むことで誤魔化した。

「本当にありがとうございました。お付き合いしていただくのも申し訳ないので帰っていただいて大丈夫ですよ」

 彼女は少し困ったように悩んで、それから納得したように頷いた。

「わかりました。そうですよね、邪魔にもなっちゃうし帰りますね」

「あ、最後に連絡先だけ聞いてもいいですか? その、後日お礼したいので」

「お礼なんていいのに……でも、わかりました」

 ペンとメモを渡すと彼女はスラスラと綺麗な文字で記していく。美人は文字も美しいのか。あっという間に書き上げられ、メモは名前と電話番号、メールアドレスとともに返ってきた。

「これが連絡先ね。じゃあ、気を付けて帰ってくださいね」

 恭しくお辞儀をしてから軽く手を振って、彼女は帰っていった。去った後もわずかに高価そうな香水の残り香があった。

 水を一口飲み、深く呼吸をする。やっとまともな精神状態に戻った気がした。全身にぐっと力を入れて重い腰を上げる。まだ少しふらつく足で、人のいないホームを後にした。



 私は彼女と再び会うことになった。

 彼女に助けられた翌日『昨日はありがとうございました。お礼がしたいので、どこかでお会いできないでしょうか?』とメールをした。すると『じゃあ金曜日はどうですか? おいしいイタリアンを知っているので行きましょう』と食事まで誘われたのだった。

 美しい彼女と一緒にいてもおかしくないようにと、久しぶりにきちんと化粧をして身なりを整えた。少しいいブランドのブラウスとスラックスは今日のために買ったものだ。職場の男上司には、「今日はなんか気合入ってるね、さてはデートか?」と茶化された。

 お礼にはハンカチを用意した。昨日、最寄りの駅ビルで一目惚れした、上品な淡いピンクのハンカチだ。可憐で美しい彼女にぴったりだ。正直、お礼に何を渡すのが正しいのかはわからなかった。でもおそらくハンカチは無難なチョイスだから、不快にさせることはまずないだろう。

 華の金曜日に浮かれる街のなか、彼女を待つ。会社から一つ先の駅の改札前。六月にしては暑くて、袖をまくるサラリーマンも多く見られる。

 彼女が指定した時間まで、あと五分。秒針よりもずっと速い鼓動を感じる。上手くお礼が言えるだろうか。ハンカチは気に入ってもらえるだろうか。急に緊張してきた。そんな私の緊張をさらに加速させるかのように、彼女からメールが来る。

『もう着きます』

 鏡を取り出して髪型と化粧を確認する。前髪を直し、鏡を閉じたところで、視界に彼女の姿が入った。彼女の美貌は人ごみのなかでもひときわ目を引いた。スーツだらけのモノクロな世界に、水色のふんわりとしたワンピースを纏った彼女。一瞬、時が止まったように感じるほど、その光景は芸術的ですらあった。彼女は私に気がつくと、花がほころぶような笑みを浮かべながら、小走りで向かってくる。

「ごめんなさい、待ちました?」

 息を整えながら彼女は尋ねる。上下する肩にはブランド物のミニショルダーバッグが掛かっていた。

「いえ、私も今来たところなので」

「本当ですか? じゃあ、さっそくお店行きましょう」

 彼女はそう言うと歩きだした。店へ向かう前にお礼を言ってハンカチを渡そう、と算段をあらかじめ決めていたが、さっそく狂ってしまった。ハンカチの入った紙袋の取手をぎゅっと握り、彼女の後をついて歩く。

「今日のお店、凄く美味しいんですよ。最近行けてなかったから楽しみなんです」

 嬉しそうな声色。少女のように彼女は振り向いた。

「そうなんですね。あ、まずは、先日はありがとうございました。それにお店まで決めていただいて……」

「いいの、私が行きたかったから。それに困ったときはお互い様でしょう?」

 屈託のない彼女の笑みに救われる。軽い足取りで繁華街を進んだ。

 五分ほど歩くと、彼女はオープンテラスのある店の前に止まった。予想以上にお洒落な外観で、なかなかのお値段の店に見える。

「素敵なお店ですね。私、もう少しきちんとした格好してくればよかったでしょうか?」

「そんなに身構えなくて大丈夫ですよ」

 彼女はくすりと笑い、店内に入っていく。重い木の扉を開けた先には、ディナーを楽しむカップルや女子会らしき集団が見られた。確かに外観よりはカジュアルな印象だが間接照明やピアノが置いてあり、やはりお洒落だ。

 パリッとしたシャツにエプロンをしたギャルソンに案内されて席につく。向かいに座る彼女は嬉しそうにメニューを開いている。ワンピースの開けた襟の間には、一粒のダイヤが輝いていた。薄暗い店内で、それだけがきらきらと神秘的な光を放っている。動きに合わせてダイヤが輝きを変える様子をぼんやり見ていると、彼女は不思議そうに首をかしげていた。

「あの、お酒飲めます? ここはワインの種類が豊富なんですよ。店員さんに聞けば、お料理に合ったワインも教えてくれるんです」

 差し出されたドリンクメニューを見て、咄嗟にしまったと思った。私はアルコールが嫌いだった。酒の席で身体を触られた件もあって、酒に全くいい思い出がないからだ。

「あ、ごめんなさい。私、お酒はちょっと……」

 酔って理性を失うのは怖い。ほとんど初対面の人の前ならなおさらだ。

「そっか、そうなんですね。何も謝ることじゃないですよ。じゃあ、何頼むか決めましょう」

 そう言った彼女の顔が一瞬曇ったのを、私は見逃さなかった。そうだ、私は彼女にお礼をしなければならない立場だ。彼女がお酒を飲みたいのならば、一緒にお酒を飲むべきなのではないか。ワイン一杯くらいなら大丈夫だろうか。最後に酒を飲んだのは、確か二年前。ワインなんてずっと飲んでいない。彼女がぺらぺらとメニューをめくるなか、私は決めた。

「やっぱり、私も飲みます」

 驚いた彼女は、最初は私を心配した。それでも、私が大丈夫だと自信ありげに言うとそれを信じたようで、ワインのページが再びこちらに差し出された。

「どれがいいかな? 飲みやすいのがいいですよね」

 カタカナの羅列を反対側からじっくり読んで呪文のようなワインの名前を呟く彼女は、まるでクリスマスに頼むプレゼントを選ぶ子供のようだった。

 彼女のチョイスで料理とワインを注文すると、すぐにワインがテーブルに運ばれた。ギャルソンがワインの説明をしたが、私にはさっぱりだ。そんなことより、向かいでワインに目を輝かせる彼女に対して、こんなに喜ばれるなら自分も飲むと言ってよかった、という嬉しさが込み上げてきた。店内の楽しげな雰囲気に私も飲まれているのかもしれない。

 乾杯をしてから、少しだけ口に含む。ほのかな渋みと鼻に抜けるアルコール。飲み込むと食道から胃にかけてじわりと熱を感じる。その様子を、珍しい動物を観察するかのように彼女はまじまじと見つめていた。

「お口に合うかな? 苦手だったら言ってくださいね」

「ええ、たぶん大丈夫です。お酒を飲むのが久しぶりなだけなので」

 ワインが嫌いではないことをアピールするつもりで、口元に運んだワイングラスをぐいと傾けた。そんな飲みっぷりに感心したのか、彼女は満足げに笑った。

「それなら良かった。きっとお料理とも合いますよ。やっぱり肉料理には赤ワインですから」

 出てくる料理を楽しみながら、私たちはやっとお互いのことを知るための会話をした。話して気がついたが、私たちには多くの共通点があった。早生まれの二十六歳であること、東京出身なこと、インドア派なこと、そして仕事をしていない時期があること。彼女は出身の高校で教師をしているが、現在は休職中だという。私は今の会社に勤める前に二年ほど無職の時期があった。

 共通点の多さに運命を感じるほどではないが、彼女をただの他人とも思えない。美しい彼女と私とでは全てにおいて天と地ほどの差が存在するが、その天と地をつなぐような不思議な縁でもあるのかもしれない。直感がそう言っていた。

 彼女へ抱きつつある親近感と久しぶりの飲酒で気分が良くなり、一杯飲んだだけで私はかなり饒舌になっていた。普段は個人的な話をすることを好まなかったが、彼女から聞かれるとなんでも話したくなっていた。

「きょうだいはいるんですか? あ、なんか妹がいそうかも」

 何杯目かわからないワインを片手に、変わらない顔色で尋ねられた。

「よくわかりますね、妹が一人います」

「やっぱり? しっかりしてそうな雰囲気だからお姉ちゃんなのかなって」

 的中させて得意げな顔をしてから、「一人っ子だからお姉ちゃんには憧れるな」と、とろんとした目で甘えるようにこちらを見つめてくる。どうやら顔色に出ないだけで彼女も少し酔っているようだった。

「妹さんとは仲いいんですか?」

 まったりとした口調で問われる。

「昔は本当に仲良かったですよ。私にべったりで。そういえば、ついこの間に妹が結婚したんですよ。ほらあの、私たちが会った日の前の日に」

「へえ、それはおめでたいですね。私もだんだん周りが結婚ラッシュになってきて――あ、付き合ってる人とかいるんですか?」

 この手の話題は苦手だった。でも今日は、なんだか上手い切り返しが考えられない。口と脳みそが直結しているみたいに、口からすらすらと本当のことが流れ出ていく。

「いや……いませんよ。私、ずっと男の人が怖くて、それどころじゃないっていうか――」

 彼女の顔が、一瞬ぴくりとこわばった。私もはっとした。彼女は先日の私の様子と今の発言から、私が異常なほど男性が苦手であることを察したのだろう。ほぼ初対面の関係でこんなにも個人的で反応に困る話をしたら、戸惑うのは当然の反応だ。

 すぐさま「なかなか彼氏できないんですよね」と言い直すがもう遅い。彼女は「そっか」と相槌を打つと黙ってしまった。一気に空気は重く、苦しくなった。

「あの、そろそろお開きにしますか? もういい時間ですし」

 私が提案すると、彼女は「そうだね」とだけ呟いた。お礼として食事の代金はこちらが払うと言ってあったので、彼女を先に店から出して会計を済ませる。

 ハンカチを渡すことをすっかり忘れていた。この状況で渡せるのだろうか。大きな溜息が零れ落ちる。

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