第37話 Home

 深夜、明かりの消えた家に帰り着く。やはり姉の帰宅している様子はなく、深紅シンクは少しほっとする。


 扉を開け、暗い屋内に踏み込む。夜気が染みこんで冷え切っているばかりの、空っぽの家……ではなかった。今はその奥に、待っている誰かの気配がある。足取りが抑えきれずに僅かに調子を速め、深紅は真っ直ぐ自室へと向かう。


「んあ。お帰りなさい。遅かったのね」


 室内に入り照明をつけると、深紅のベッドの上で寛ぎきっているリンの姿があった。パンダ柄のプリントされたパジャマに身を包み、ずり落ちそうな仰向けの姿勢でマンガを読んでいる。いったいどれだけ夜目が利くのだろう。


「……ただいま。そのパジャマ気に入ったのね」



「ん、サイズ合うのこれしかないし、パンダ可愛いし。ひゃんっ」


 ペチン。すれ違いざまにはだけられた臍の辺りをはたいて、椅子に腰を下ろす。


「はしたないなあ」


「むー、深紅のエッチ」


 ちらりと抗議の視線を寄越して、すぐにマンガに没頭する。何事もなかったような燐の態度。


 ……そうじゃないでしょ。

 帰ってくるだけでも大変だったのだ。有り余った贄華が溢れかえって、スイッチが上手く切れない。だからといってそのままでは夜道で目立ってしまって仕方がない。漏れ出そうとする蛍光を無理矢理押さえ込み、どうにか人目を避けて家路を急いだ。いくら全力疾走しても息ひとつ乱れないのはありがたかったが、誰にも見られてないことを祈るしかない。


 ひとつ深呼吸をしてから、椅子を半回転させる。背もたれに肘を突いて、燐の方を向く。


「遅かったって言うけど、燐が先に帰っちゃうからじゃない。私のことほったらかしにして」


「んー?別に問題なかったでしょ。今日の深紅なら心配ないって、わかっていたもの。充分すぎる量の贄華あげておいたんだし」


 燐はマンガのページをめくる。深紅の方を見ようともしない。


「ねえ、訊きたいことがあるんだけど」


「……んー」


 被さりそうなほど、読んでいるマンガ本を顔に近づける。気のない返事と裏腹に、露骨なくらい燐が身構える気配。


「誰なの、あの子。ケモノのところにいた、燐にそっくりな子。似ているなんてものじゃなくて、写真だったら見分けが付かないかも。フリルだらけで黒ずくめのドレスとか、妙に痛い格好しているのに、すごく似合ってた。でも、男の子なんだって」


「ふうん……そいつ、何か言ってた?」


 マンガはさらに顔へと接近する。燐の目は既にページを追っていない。


「すごく文句つけられた。お前のしていることは間違っているんだ、みたいな感じで。それにナイフを返せって言われた。元はオレのものだったんだから、だってさ。もちろん渡さなかったけど」


「ふーん……」


 続きを読むのは諦めたらしい。ついにマンガは開いたまま、顔の上に載せられた。


「他にも大きな喋る猫とか車椅子にグラサンの男の人とかがいて、ケモノの駆除をしているんだって言ってた。きっとあれが噂になってる退治屋なんだろうね。なんか、手を組んで一緒にケモノを狩ろうとか提案されたけど、断って来ちゃった」


「……良いのよ、それで。全部無視しておけば良いの」

 本の下から、くぐもった声で燐が答える。

「そいつ、幽霊だから。何を言われたって気にする必要なんてない。中身の入っていない、ただの抜け殻だもの」


「何それ。足ならしっかり生えていたし、こっちは素足まで見ているのよ。ケモノに押さえつけられていて、酷くいたぶられた後みたいにボロボロになっていたけど、死んではいなかったはず」


「……そう」


 覆い隠された顔から、ぽつりと短い返事だけが聞こえた。やはりまともに教えてくれるつもりはないようだ。


「燐の方がよほど妖怪でしょう。普段は小さな黒猫なのに、今みたいに私がひとりでいるときだけ人間の姿になるだなんて。もしかしたら私の頭が変になっているだけで、これもみんな黒猫一匹相手に見ている妄想なのかもって、思えてくる」


 本の下からちらりと、燐は不満げな目線を投げてくる。


「あのねえ。だからその辺の原因は全部、深紅にあるんですけど。……じゃあさ、妄想かどうか試してみる?」


 やおら半身を起こして、深紅の方へ乗り出してくる。マンガ本が床に落ちた。燐はするりと手を伸ばし、深紅の二の腕の辺りに触れる。赤と青、異色の瞳が掬い上げるように見つめてくる。


「ほら、まだこんなに熱い。汗まで滲ませて、動悸も落ち着かないみたいね。余った贄華が溢れて、治まらないんでしょう」


 くいっと引き寄せられ、深紅の体が椅子から浮き上がる。華奢で小柄な見た目に反して、相変わらず燐の力は強い。くるり部屋が回転すると、ベッドに仰向けで着地していた。


「ちょっ……」


 動揺しているところを押さえつけられ、真上から覗き込まれる。思わず目を逸らし、深紅は横を向いてしまう。


 くくくっ。燐のこまっしゃくれた笑いが喉奥から漏れて降りそそぐ。


「摂取過剰なのよ深紅は。あんなに必死になってがっついてくれたから。このケダモノめ……さぞや辛いでしょ。今、楽にしてあげる」


 どうせ力では敵わないとわかっているから。せめてもの抵抗に、横目で睨みつけてやる。


「どっちがケダモノよ、この妖怪。あなたがお腹を空かせているだけでしょう」


「ふふっ、いけないの?今度はあたしの食事のターン。余分な贄華を回収するだけだから、早く早く」


「うう……あんまり痛くしないでよ」


「それはどうでしょう。自分はあんなに乱暴にした癖に虫がよすぎない?もう、初めてじゃないでしょ。ほら、口を開けて」


 観念して、深紅はベッドの上で脱力する。そして思い出す。


「そう言えば、今日の放課後、クラスメイトたちに言われたんだ」


「この場面でオトモダチの話?深紅って焦らし上手すぎ」

 燐の表情から笑みが引っ込む。


「私さ、『美味しそう』なんだって」


 それを聞いた燐は一瞬きょとんとした顔をして、すぐに不満げに頬を膨らませた。


「……そんなの、あたしがいちばんよく知ってるもん」


 燐の顔が被さってくる。柔らかそうな唇から、鋭い犬歯が覗く。


「実際、美味しいってこともね」


 食い込んでくる、燐の牙の感触。


 やっぱり痛い。

 でも……。


 その痛みさえ、たまらなく。深紅は美味しいと感じていた。

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