第35話 灰は灰に

「寒い……寒いよう」


 毛皮を刈り尽くされた羊男が弱々しく繰り返す。あれほどボリュームがあったアフロヘアもすっかり萎んで、今ではパンチパーマにしか見えなかった。そして男の抱え込んでいたクッションは、いつの間にか黒いドレスを着た少女の姿に変化している。


 その少女の顔を見て、深紅シンクは息を呑む。


 燐だ。燐そのものだ。だが……燐ではない。


 先刻の、羊が化けた姉の時と一緒だった。見た目だけは燐に間違いない。しかし、これは別人だ。何処が違うのかなんて説明は出来ないけれど、違うことは理解できていた。

 もうケモノのまやかしは解けているはずなのに、何を見せられているのだろう。顔色も悪く微動だにしないその姿は、大仰なドレスのせいもあってまるで似姿の人形だった。精緻な造りの顔も均整のとれた細身の体も、こうしてあらためて見せられると出来が良すぎて、作り物感を増している。しかしよく見ればドレスもボロボロでブーツも片方が脱げ落ちており、痛々しくて生きているのかどうかも分からない。


 そんな少女に取りすがり、痩せた羊男が小刻みに震えている。


「俺が守るのだ。ミチコさんを……ミツを、ミキを。俺が」


 先ずはケモノの方から片をつけなくちゃ。この子のことはそれから。深紅はナイフを握り直し、羊男の前に立つ。


「羊さん。あなたはそれ程に家族を愛していたのですね。とても深く……愛しすぎていた。知っていますか?誰かを強く想う気持ちが、ケモノの嗅覚を惹き付けてしまうらしいですよ。飢えたケモノもまた、喰らうべき人を強く求めているから、共鳴した感覚が呼び寄せてしまうのだとか。家族への愛情が深かったからこそ、あなたはケモノに目をつけられ、食べられることになってしまった」


 降り注ぐ声に、羊男は呆然とした面持ちで顔を上げる。


「俺が……喰われただと。そんな……だったら今のこの俺は」


「わかっているのでしょう。ただ認めたくなくて、目を背け続けている。あなたは既に人ではない。羊さんの記憶と人格を持ってしまった一匹のケモノ。父親でもないのに、父親としての愛情を受け継いでしまったケダモノ。ケモノの本能が命じるままに、家族への愛情を食欲と錯誤して、家族を食べ尽くしてしまった」


 震える両手で、羊男は顔を覆う。ゆるゆると首を振り、指の隙間から体育館の暗がりに目を泳がせる。


「俺は……愛していたんだ。ものすごく、たまらなく、俺は家族を愛していた。飢えるほどに、渇くほどに愛していたんだ」


 深紅は羊男の頭に手を伸ばし、歪に残されていた角の痕跡に手を添えると、掬いあげるように上を向かせた。


「そう。あなたはただ、愛していた。それだけだから」


 怯え、不安に揺れる羊の目を真っ直ぐに、覗き込む。深紅の瞳の碧い蛍光が輝きを増し、羊男の目に流れ込んでいく。羊男の瞳を碧く染め上げていく。


 ブルブル止めどない羊男のおこりが、すっと治まった。緊張に張り詰めていた全身が、柔らかく弛緩する。


「あなたが間違えたわけじゃない。あなたはただケモノとして、父親としてありのままに行動しただけ。そして家族がいなくなってからも、行き場を失って溢れ出した愛情を多くの人々に振る舞っただけだから」


「そうだ……俺は愛していたんだ。家族のことも、みんなのことも……君のことだって」


 とっぷり蛍光に満たされた眼差しを、陶然と深紅へ向けてくる。そのまま羊男は首を伸ばし、深紅の胸元へと鼻先を寄せる。そして臼歯が生え並ぶ口を大きく開く。


「ケモノなのでしょう。愛したら良いのよ、好きなだけ」


 耳元に深紅は囁く。言われるままに、羊男はその歯を少女の首筋に食い込ませた。痛みに眉根を顰めつつ、深紅はケモノの為すがままに身を委ねる。羊男は溢れ出した血を、音を立てて啜り上げる。


「愛しているのだ……」


 ぐびり。深紅の血を呑み下すたびに、羊男の体にも碧い蛍光が浸透していった。痩せ細った全身にじわじわと染み渡り、ぼんやりとした輝きに包まれていく……。


「これは……ケモノの肉体が贄華に染まってく」

 背後から傍観している、カイが興奮気味に呟いた。


「満開の贄華を喰らえば、ああなる。贄華を取り込めば一時的にその生命の力を得ることは出来るが、とどのつまり贄華は喰らわれたところで滅することはない。むしろ喰らったケモノを、内側から喰らい返す。咲ききった贄華をその身に受け入れて、あのケモノは無抵抗なまま贄華に蝕まれるだけじゃ。後は、狩主の仕事よ」

 銀猫は冷め切った視線を注ぐ。


 恍惚の表情を浮かべ、羊男は体内から溢れだす蛍光に呑み込まれていく。


「俺は……俺は」


「愛したんですよ。私のことも、みんなのことも、あなたの家族のことも」


「そうか……俺は」


 満足げに、すべてを得心したように。羊男はひとつ、淡い蛍光を帯びた吐息をついた。


 深紅は羊男を抱き寄せるように、その背中に回したナイフを突き立てる。熱を帯びた刀身が吸い込まれ、完全に羊男の背に埋まる。


「ミツ。ミキ。ミチコさん……」


 蛍光に染まった肉体が、輝く砂塵となって崩れ落ちる。薄闇の中へ溶けて消えていく。


 蒸散する光の粒子を見届けながら、深紅はひとり呟く。


「終わった、のかな」


 パチンと音を立て、ナイフの刃を折りたたんだ。


 「でも、霧紫ムラサキの振りをしたのはやり過ぎだから」


 そう付け加えた足下から、か細く声がした。


「……欺瞞だ」


 黒いドレス姿の少女が、薄く目を開き深紅のことを睨み上げていた。燐より僅かにハスキーな響きの声だ。


「あ、生きてる」

 率直な感想が深紅の口を突く。


「悪……かったな」


 少女は起き上がろうとして身をよじるが、力が入らないようだ。深紅が助け起こそうと手をさしのべると、弱々しく撥ね除けられた。


「え、何で?」


「あんた……どういうつもりだよ。さっきの、ケモノに対するあんたの態度。まさかケモノのことを救ってやっただなんて思っていないだろうな」


 細々とした声量に相反して強い語気と、苦痛に歪みつつ見上げてくる眼差しの鋭さに、深紅は怯まされる。


「……そんなの、」


「人間じゃないんだ、あいつはケモノに過ぎない。実際に何人ものひとを食い殺している。そんな怪物をあんたは認めてやって、肯定するような言葉を囁いてさ。自分の慈悲深さに酔い痴れるのは、さぞかし心地良いんだろうな」


「そんなの、私の勝手でしょう。私は……言葉を交わせる相手のことを、そんな簡単に切り捨てられないだけ……だと思う」


「ケモノを理解しようとしているのかよ。あんた、ケモノを狩っておきながら、人よりケモノ側に近づいているんじゃないか」


 少女は天井を仰いだまま堅く目を瞑り、唇をきつく咬んだ。


「チクショウ。何してしてるんだよ、オレは。あんたみたいなのに、羊を横取りされるなんて。……何者なんだよあんた。ただの素人っぽいのに、ぶっ壊れたはずの響峯を全部ひとりで持ってるだなんて、反則だろ。返せよ……あんたの手にしてるナイフ、本来はオレのものなんだぞ」


「何言ってるの、そんなこと出来るはず無いでしょう。それに、何者なのって、それこっちの台詞だから。あなたの口ぶり、それにその服装といい、あなた、ウワサになってる退治屋よね。こっちは散々話を聞かされているんだから。それにその顔……」


「ウワサ?そんなの知るもんか。それよりナイフを返せ」


「駄目だって。これはね……」


 ヒヒヒ……言い争いを始めたふたりの間に、低い笑いが割って入る。銀色の毛並みをした大型の猫が、車椅子の青年を従えて近づいてくる。


「止めておけ、小僧。目玉ひとつの贄華しか持たない手前が、狩主の刃を持っても意味が無かろう。お古が嫌なら、先ずは贄華の助太刀を乞うことじゃな」


「巫山戯るな。今回も見ているだけで、何もしなかった癖に。こんな、人よりケモノにおもねるような奴に、頭を下げるなんて出来るもんか」


「冷静になりなさい、エン君。これは響峯のシステムを回復するチャンスですよ。彼女と協力できれば、飛躍的に効率よくケモノを狩ることが出来る」


 車椅子が前に出て、戒は深紅に正対した。


「失礼、挨拶が遅れてしまった。退治屋という表現が正しいのかはわからないが、我々はケモノと呼ばれる脅威を駆除するために、私的に活動しているものです。先ほどのあなたの活躍、拝見していました。実に素晴らしい」


 深紅は現れた者たちを、あらためて見回す。一人と一匹。どちらも深紅よりずっと事情に通じているようだ。


「……最近は、お喋りする猫が流行っているんですね」


「おや、驚かないとは……ふむ」

 戒も探るような視線をサングラスの下から投げかけてくる。

「ところで、あなたの遣り方に敢えて指摘をするならば、刃物の扱いに慣れているようには見受けられなかった。今後もケモノを狩ろうと考えているならば、この点がネックとなるでしょう。このままだと、いずれ困難に直面するだろうことは想像に難くない。そこで提案があります」


「はあ。提案、ですか?」


 そうは言われても、この男、どうも胡散臭い。さっきはこの体育館の管理者であるかのように振る舞っていたではないか。方便だったのだろうが、事情に通じていると言うことは、やはり一般人の深紅が羊の餌食になるだろうと予測しておきながら、わざと体育館に招き入れていたはずだ。結果的には、それが功を奏してくれたのだが。


「役割を分担いたしましょう。あなたはただ、ケモノに贄華を提供するだけで良い。そのナイフ、狩主の刃をそこの少年に預けてもらえれば、後の始末は彼がつけます。ええと、今の状況では説得力ありませんが、こう見えて彼は武術に些かの心得があります」


「少年?ああ、ホントに男の子なんだ……」


 噂にもあったとおり、ゴスロリ衣装の退治屋は男の子だったらしい。そう言えばそこの猫にも小僧と呼ばれていた。この愛らしいルックスで男子とは、深紅もつくづく感心する。そして燐との関連がさらに気になる。まじまじと無遠慮に観察してくる深紅の視線に、煙はぷいと顔を背けた。


 戒は得々と続ける。


「狩主と贄華によるケモノの駆除は、響峯という古来からの洗練されたシステムです。囮役が怪物を魅了して引きつけると同時に決定的な弱点を植え付け、攻撃役がそこを突く。あなたと我々が協力すれば、これを再構築できるのです」


「いい加減にしろよ先生。オレにとっての贄華はひとりだけだ」


 床の上から抗議の声があがる。


「君が聞き分けないでどうするんです。このチャンスを逃せば、今回のような苦戦を強いられる可能性も高い」


「駄目だよ。駄目なものは駄目だ」

 とりつく島もない。


 銀猫がその金色の瞳で、ぎろりと深紅を睨めつける。


「のう、娘よ。手前はどうなんだい」


 考えるまでもなかった。答えは最初から決まっている。


「ええと、折角のお誘いだけど、御免なさい。これは私がやらなくちゃいけないっていう、約束なんです」


 きっぱり、即答だった。


 ヒャ、ヒャヒャヒャ……。破裂するように、銀猫が笑い出す。


「見事、決裂じゃな。まこと愚かしいことよのう。態々わざわざ、理にそぐわない選択をしよる。だがそれが手前ら人というものなんじゃろう。愉快なことよ」


 体育館に響き渡る哄笑に混じって、遠方から近づくサイレンの音が聞こえてきた。誰かが館内の異変に気付いて、通報したらしい。


 いけない。こんなところを見つかって補導でもされたら……姉の職業上、すぐその耳に届いてしまいかねない。


「それじゃあこれで失礼します、さようなら。あの、お大事に」


 ぺこりと会釈する。そそくさと出口に向かいながら、ちらりとゴスロリ少年の姿を確認した。煙の方でも忌々しげに、深紅の背中を追っていた。

 結局、燐との関係を聞きそびれてしまったことが心残りだった。仕方が無い、帰ったら直接燐に問い質そう……。


 小走りで退出していくツインテールを見送り、銀猫が零す。


「あやつ、響峯以外の贄華だと?あり得ん。何者ぞ」


「僕の方で探ってみます。あれだけ目立つ髪型ならば、すぐに当たりも付きますよ。それより我々も早く撤収しましょう。音羽君にでも見つかると面倒だ」


「手前もいつまであの娘を苦手にしとるのか」


「一応、これでも立場というものがありますから。もちろんそれも、すべてメイ様のお役に立つためです」


「フン。小僧もいつまで悠長に伸びておる。ウチに手間を掛けさせるな、行くぞい」


 銀猫は煙の首根っこを咥えて、ひょいと背中の上に放り上げた。


 張り詰めていたものが緩んだのだろうか。一四歳の少年は意識を失い、夢と現の狭間に滑り落ちたまま熱に浮かされたように呟きを繰り返す。


「オレだって……オレだってさ……」


 体育館の外は月夜だった。温かな背中の上で揺られ、煙は宵闇の底を運ばれていく。柔らかな毛並みに顔を埋めて、薄く涙を浮かべていた。


「ねえ……燐」


「……洟垂らすんじゃないよ。まったく」


 夜風が少年の頬を撫でる。

 夜明けはまだ遠い。

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