第33話 ファミリィ・ポートレイト

 曖昧に広がっていた白い霞が、心地よくかき消されていく。

 タクトのようにナイフを振り回し、指揮者よろしく大胆に深紅シンクは羊毛を処理していく。蛍光する大きなツインテールが暗い体育館に跳ね踊る。勢いが過ぎてちょくちょく姿勢を崩し、足下がふらつくこともある。


 最初に膨大な物量を目にしてうんざりしていたが、このペースなら思ったより早く終えられそうだった。次第にコツもつかめてきていて、ナイフの刃に角度をつけると、放射されている熱に触れるだけで羊毛は溶け崩れ、消滅していく。体育館に充満するかのようだった繊維状の雲海はみるみる削り取られ、見る影もなく縮んでいった。


 すると不意に、大部分が失われた羊毛の奥からぼそぼそと、小さく微かな声が深紅の耳に届いた。


「寒イ……寒イノダ」


 この中に、ケモノの本体が隠れている。


「いいや、近道しよ」


 声のする方へと、深紅はまっすぐ切り込んでいくことにした。

 羊毛の壁にショートカットルートを掘り進み、潜り込んでいく……。


 全体のサイズは小さくなったとはいえ、そこはケモノの体内だ。羊毛の内側へとノコノコ姿を消したツインテールの背中を見送り、カイは不安げに言う。


「彼女、大丈夫でしょうか。エン君の二の舞コースに入っているように見えますが」


「知らん。今は見とるしかなかろ。精々お手並み拝見じゃ」


 銀猫も諦め半分だ。


 ウールのトンネルを切り広げながら進んでいると、めくり上げた襞の奥から一枚の扉が深紅の前に出現した。


「あれ?これって」


 見覚えがある。いつも見ている自分の家の、リビングの扉だ。何処までも白一色に染められた非日常の風景に、ポツンと置かれた日常がシュールだった。


「寒い……寒いよう」


 小声の呟きはこの中から聞こえている。奇妙に思いつつも、開いてみた。


 拍子抜けするくらい、中はいつも通りの見飽きたリビング。奥のソファにはぐったりと腰掛ける人影があった。


「あれ、霧紫ムラサキ?」


 数日ぶりに見る姉の姿だった。大ぶりなクッションにもたれ掛かり、小刻みに身体を震わせている。


「こんなところで、どうしたの。すごく体調悪そうだけど」


「ん……ちょっと寒気がするだけ。少し休めば大丈夫」


 寒い寒いと繰り返していたのは霧紫だったらしい。羊男の声のような気がしていたのだが。


「ちゃんとベッドで休んだ方が良いよ。最近仕事で無理しすぎでしょう」


 あれ。おかしい、何を言っているのだろう。ここは自分の家であるはずが無い、羊毛の中のはずなのに。見知った日常そのままの情景と、記憶からそのまま抜き出したかのような姉の姿に、深紅の状況認識が強引にたわめられようとしている。


 こんなふうに弱っている姉の姿を見るのは、久しぶりだった。両親を亡くしたとき以来かもしれない。深紅の闘病中も決して取り乱すことはなく、妹の手を硬く握って励まし続けてくれた。普段から風邪を引くことさえなく、いつも妹の前では背筋を真っ直ぐ伸ばしているのに。


 霧紫は震えながら告げる。


「深紅は何も心配要らないわ。食事でもすればすぐ元気になるから」


 記憶にも刻み込まれている、いつも通りの姉の声だった。

 深紅は心配しないで良いのよ。これまで何度も聞かされてきた台詞。


 これからもただ、聞いていることしか出来ないのだろうか。

 いつまで経っても私は、弱くて守られているばかりの深紅だ。


 折りたたんでこっそり掌の中に隠した、ナイフの重さを確かめる。金属から放たれる熱が手袋を透して伝わってくる。言いたくて言えなかった言葉が、今なら言えそうな気がした。


「心配するよ、私だって。心配くらいさせてよ」


 深紅の中でせき止められていたものが、溢れ出す。


「いつだって霧紫が私のことを守ってくれた。今の私があるのは霧紫のお陰だよ。でも」


 深紅はぎゅっと目を閉じ、一息にまくし立てた。


「私だって、霧紫のことを守りたいんだよ。霧紫の助けになりたいんだよ。少しくらい、霧紫に頼って欲しいんだよ」


 言ってしまってから、そっと姉の顔を窺う。じっと面を伏せたまま、霧紫は小刻みに震えていた。


「ああ、寒い……寒いのよ」


 カチカチと歯を鳴らしながら、姉は続ける。


「そう……深紅の気持ちは嬉しいわ。でもいけない。あなたは身体が弱いのだから。全部姉に任せておきなさい」


「でも」


「いいのよ、深紅はこの部屋の中で元気にしていてくれれば。深紅が笑っていてくれれば、姉はそれだけで幸せなの。それだけで姉は頑張れるから」


 今日の霧紫は言い方がストレートだ。いつもの寡黙な姉なら、照れくさがってこんな心情なんて絶対語らないのだが。


「そんなこと言って、今体調崩しているのは霧紫の方でしょ。いやなの、私の所為で頑張りすぎて、身体を壊されたりしたら。私にだって出来ることがあるはず」


「駄目。何を言っているのかしら。家族を守るのは姉の役目よ。姉に任せておけばいいの。それだけ姉は深紅のことが大好きなのよ」


 大好き。姉らしからぬ率直な言葉を投げかけられて、つい戸惑う。しかしそこに深紅の気持ちを聞き入れる余地は見られない。


「……分からず屋。過保護なのよ。私、霧紫のペットじゃないのに」


 深紅は頬を膨らませてむくれる。まるで頑是無い子供の反論だ。


「ねえ、深紅。この部屋はとても暖かいでしょう。それは姉の愛情にたっぷり包まれているからなのよ。あなたはこの温もりにすべてを委ねてくれれば良いの。それが深紅の幸福だから」


 言いながら、霧紫はひとしきり身体を震わせた。


「でも……どうしたのかしら、今の姉はすごく寒い。姉にも深紅からの愛情が不足しているのかも。いいえ、きっと単にお腹がすいている所為よね」


 漸く、霧紫は伏せていた顔を上げ深紅を見た。やけに熱っぽく、湿った眼差しが注がれる。


「深紅にお願いがあるの。もっとこちらへ、姉の近くに来てくれる?」


 言いながら、ちろりと舌先で唇を湿らせている。

 深紅はこくりと頷いて、言われるままに歩み寄る。


「もっと、もっと近くへ。……どうしたの、もう少しなのに何故立ち止まるの。姉はあなたのことを抱きしめたいの。深紅のことを愛しているから。深紅も姉を愛しているのでしょう」


「ええと……それはまあ、そうなのだけど。でも」


 足を止めた深紅は、ソファの人物に告げる。


「あなたは霧紫じゃないから。見た目とかはそっくりそのものだからついその気にさせられちゃうけど、全然中身が違う。そのくらい私にも分かる」


 姉の姿をしたものが、小首を傾げながら手をさしのべてくる。


「ふふ。おかしなことを言うのね。変な子。何をしているの、恥ずかしがらずにこっちにいらっしゃい。ほら、早く。早く」


 とん、背中を軽く押された。つんのめりかけて落とした目の先、鳩尾の辺りから尖った三角が生えていた。背後に出現した螺旋状の角が、深々と深紅を突き刺し、鋭い先端が胸を貫通している。


「あれ?痛い」

 いきなりの攻撃に、深紅は目を丸くする。


「いけない子。ぐずぐずしているからよ」


 角はさらにぐいぐいと背後から押し込み、傷口にねじり込みながら深紅を前方へ、待ち受ける姉に似た何かの腕の中へと送り込む。


「姉はお腹がすいているのだ」


「霧紫の顔でおかしなこと言わないでよ」


 胸を貫かれたまま、深紅は畳んでいたナイフの刃を引き出す。刺さっている角の表面はのこぎりの歯が密集したようになっていて、少しでも動けば肉も骨もぐちゃぐちゃに引き裂かれてしまう。


「痛つ、つつつ……」


 苦痛の声を漏らしつつ、深紅は傷がこじられ広がることにも躊躇せず、身体を大きくよじる。ブチブチ体組織が千切られゴリゴリと骨が削れる感触があるが、気にしない。窮屈な姿勢になりながらも、ナイフの刃を背後の角に切りつけた。


 プリンをスプーンで掬い取るように、なめらかに角が抉られる。ナイフを数回往復させると簡単に切断され、深紅は串刺しから自由になった。


「結構、痛いんだからね」


 体内に残った先端部を無造作に抜き取り、ぽいと床に放り出す。ナイフに切り取られた角は溶け崩れて蒸発した。


 深紅の胸の真ん中にはギザギザの無残な穴が穿たれていたが、血は一滴も流れ出した様子がない。傷口は溢れ出した碧い蛍光にたちまち満たされ、痕も残さずすつるりとした肌が再生されていく。


「あなた、何を持っているのよ。そんな危ないものは捨てて、すぐにこっちへ来なさい」


 姉によく似た何かが、ソファに張り付いて震えていた。その様を、残念そうに深紅は眺める。


「これ以上、下手な物まねなんてしなくて良いのに。でもお陰で良い予行演習が出来たのかも。言いたかったことが言えて、すっきりした。少しだけ、感謝」


 今度本物の姉に会ったら、ちゃんと話をしてみよう。しかし実物を目の前にしても、同じことが言えるのだろうか。今ひとつ、自信は無い。


 ナイフを手に、姉の偽物の方へ踏み出す。


「そんな物っ」


 偽物がもう一方の羊角を呼び寄せ、深紅との間にに浮き出させた。そこから細い針が深紅へ鋭く伸び、ナイフを持つ腕を壁に縫い止める。続いて幾条もの針が四肢を目がけて打ち込まれる。蝶か何かの標本のように押し広げられ、深紅は壁の上に磔となっていた。


「痛つつ……」


 しかしナイフは手放さない。針はがっちりと食い込んでいたが、無理矢理もがいて腕を壁から引きはがした。派手な音を立てて肉が引きちぎられてもかまいはしない。解放された手でナイフを振り、硬質の針をさくさくと切断していく。

 ひょいと壁から降り立つ身体から、パラパラと押し出された針が抜け落ちる。肌にはいくつもの裂傷が刻まれていたが、それも碧い蛍光がみるみる修復していく。


「どうして、そんなに聞き分けがないのっ」

 怯えた声で、偽物が叫んだ。


 羊角は剣山のようにびっしりと針を林立させると、それを深紅目がけて乱れ打つ。ナイフ一本で迎え撃とうにも、何の技能も持たない少女には避けることさえ出来やしない。すべての攻撃をまともに食らい、衝撃で虚弱な手足が跳ね踊る。頭頂から爪先まで、身体中が穿孔による水玉模様で埋め尽くされていく。


「痛、痛、ててて……」


 それでもナイフは落とさない。手の届く範囲で一本ずつ針を切り落としながら、なお前に出ようとする。息もつけないラッシュ攻撃に押し返されつつも、少しずつ間を詰めていく。滲み出す蛍光により次々と修復されてはいるが、絶え間なく新たな傷が追加されていた。終わりの見えない苦痛の連鎖。それでも時間を掛けながら、じわじわと羊角から放たれる針を削り取っていく。


「止まりなさい。止まれ、止まるのよ」

 姉によく似た声が、何かを叫んでいる。


 一歩。二歩。前に進む。

 痛い。痛い。もう痛くて堪らない。これ以上立ってなんていられない。

 本当なら何回ぐらい死んでいるはずなのかな。


 私、何のためにこんなことしているのかな。誰のためにこんなことしているのかな。


 ねえ……燐ってば。


 立っていられず膝を突き、這いつくばってにじり寄る。

 一本一本、地道に針を断ち切っていく。


 羊角から放たれる針もようやく疎らになり、細く貧弱なものばかりとなり、ようやく突き刺す力さえ失う。その前にたどり着いた深紅はナイフを振り下ろす。抵抗もなく刃を受け入れた羊角は砂塵となって形を失い、崩れて消えた。


「どうして……どうしてっ」


 姉の偽物はクッションの上に突っ伏して、叫ぶ。姉のトレードマークだった赤みを帯びたロングヘアを、ぐしゃぐしゃに掻き毟る。


「姉はこんなにもあなたのことが大好きなのに、あなたまで姉の言うことが聞けないの?あなたも姉のことを裏切るの?」


 艶やかだったストレートの長髪は見る影もなく混ぜられ、縺れあったアフロヘアとなって盛り上がる。


「どうしてパパのことを裏切るのだっ。みんな愛しているのに、愛しているのにっ」


 そこにいるのは羊男だ。いつの間にか部屋の様子も変わっていて、見知らぬどこかの家庭のリビングルームになっている。ダイニングテーブルにテレビ、キッチンには冷蔵庫。キャビネットの上には家族の写真が飾られている。双子だろうか、幼いふたりの娘を中心に、羊男とその妻らしき女性が並んでフレームに収まっている。仲むつまじく、笑顔に溢れていた。


 その写真に目を留めながらナイフを手に立ち上がると、深紅は羊男の方へと向き直る。その肌に無数に穿たれていたはずの傷も修復され、既に跡形も無くなっていた。


「ふうん、羊さんはお父さんなんだ。ここは羊さんの家庭の真ん中にあった場所でしょう。これが羊さんにとっての、本来の毛皮なんだ」


 掌の中にナイフの熱を確認しながら、ソファで震えている羊男へと歩み寄る。


「羊さんは羊さんでしょう。きっと羊さんは愛する対象が欲しすぎて、自分を装いすぎなんです。霧紫にまで化けるだなんて。あれもこれも身に纏って、モコモコに着ぶくれしすぎて、もうあなたが誰なのかも分からなくなってしまう」


 抑えたトーンで静かに語りかけながら、うずくまる羊男の前に立つ。そして躊躇無くナイフを振り下ろす。


「無駄な毛皮は、脱ぎ捨てた方が良いでしょう。あなたはあなたなのだから」


 刃は羊男の後の壁へと切りつけられていた。背景となっていたリビングルームが、両断される。日常の情景がふたつに裂かれ、その向こうに詰め込まれていた羊毛がこぼれ出す。ぽろぽろ床に溢れたものを深紅が刈り取っていく。


「うう、寒い……寒いのだ」

 羊男が呻いて震える。


 右へ左へ、深紅の指先がなぞるラインのままに羊男の世界が解体されていく。テレビも冷蔵庫もキャビネットも、生々しく存在していた室内のすべてが、一枚の薄っぺらな書き割りとなって切断される。羊毛がブロック状に切り離され、小さく切り分けられ、塵となって消えていく。


「あなたにはあなたの愛する人たちがいるのでしょう。つまらない毛皮なんて脱ぎ捨てて、あなた本来の姿に帰れば良いんです」


 深紅は羊毛をごっそり刈り取っていく。

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