第32話 食餌


「ヤット二人キリニナレタネ、みちこサン。モウ誰ニモ邪魔ハサセナイノダ」


 妖羊の首がエンに近づいてくる。距離が縮まるにつれ、その異様なサイズに気付かされた。白一色の背景で遠近感が狂いがちだったが、迫る妖羊の首は見上げるほどに巨大なものになっていた。少年の体躯など、ひとくちで呑み込まれてしまうだろう。


「寄るなよケダモノ。気色悪い」


 強がっては見せるが、旗色は芳しくない。のし掛かる羊毛の重みで、全身が完全に封じられている。指先一つまともに動かせやしない。


 ふしゅるるる。妖羊の歯茎から溢れた唾液が、ぼたぼたと煙に降り注ぐ。


「家族ニナロウヨ、みちこサン」


 妖羊の口が開き、巨大な軟体生物めいた舌が伸び出した。生暖かくぬめったものが、少年の身体を爪先から巻き取っていく。


「くっ、止めろよ」


 抵抗むなしく、煙の首から下は弾力のある肉の布団にみっしりと包まれる。とろとろとした唾液がドレスの生地に浸透し、思いの外熱い妖羊の体温を伝えてくる。おぞましさにひとしきり躰をよじったが、引っかかったブーツの片足が脱げ落ちてしまうだけだった。露出した素肌が粘液と柔肉にねっとりと押し包まれ、その感触に煙の全身が鳥肌立つ。


 そんな少年の敏感な反応を舌の表面から感じ取り、妖羊は優しく語りかけてくる。


「緊張シテイルンダネ、みちこサン。大丈夫ダヨ、全部俺ニ任セテオケバ。サア、俺トヒトツニナロウ」


 舌が引き込まれ、煙の躰が妖羊の口中にすっぽりと含まれる。


「くうっ」


 生臭くさらに熱い唾液が、どっと全身を包む。だが首から上は口から出された状態で、ぶよぶよとした口唇と硬い前歯が煙の頸部をガッチリ固定していた。ほんの少し力を加えれば、簡単に噛み千切られてしまう。生殺与奪を支配した状態で、妖羊は恍惚とした眼差しを煙の顔に注ぐ。


「愛オシイノダ、俺ノみちこサン。大好キナノダ……」


 額に玉の汗を浮かばせ、それでも煙は睨み返す。


「こいつ、何してんだよ。さっさと喰らえば良いだろ」


 煙の強がりに応えて妖羊は満足げに眼を細めると、もったいぶるように少年の躰を口中で転がし始めた。


「嗚呼、美味シイノダ」


 まるでキャンディーだ。くわえ込んだ肉をじっくり味わい尽くすため、分泌した唾液の湯船に漬け込んでふやかす。芯まで染み渡るよう舌で全体を丹念に揉み込み、あらゆる角度からコリコリと甘噛みを繰り返し柔らかくほぐしていく。滲み出たエキスを掬い取ろうと、器用な舌先がすべての凹凸を丁寧にほじくり、なぞっていく。そして全体を力強くねぶり上げしゃぶりつくし、ぞぶぞぶと音を立てて啜り込む。


「あぐっ、止めろ、うあああ、止めろってば」


 堪えきれずに声を上げる煙の顔を、妖羊はニマニマ笑みを浮かべて見守っている。 


「マダダヨみちこサン、本当ニ楽シクナルノハコレカラダヨ」


「無理だよ、もう……殺せよ」


「駄目ナノダ」


 小休止が終わり、より苛烈な口内遊戯が再開される。少年の肉がなぶり尽くされ、翻弄される。


「うあああ……ああ……」


 絞り出された声が次第に細く、途切れがちになっていく。そしてついに、反応が消えた。


「残念。味ガシナクナッタノダ」


 つまらなそうに妖羊が呟く。これでは噛み尽くしたガムだ。歯ごたえもなくなってだらしがなく伸びきっている。せめて呑み下すしかすることもない。

 仰け反ったまま弛緩している少年の頸に歯をあてがい、妖羊は顎に力を込める。


 そのとき、経験したことのない寒気が、羊男の背筋を貫いた。

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