第31話 不調法なドア

 こっそり接近しようとして、出来るだけ目立たない入り口を選んだつもりだったのに、開けたドアがひどい音を立てた。

 思わず足がすくむ。

 しかも予想外なことに、ケモノ以外のものが目の前にいる。


「ええと……ごめんください」

 深紅シンクは取りあえず挨拶を口にしていた。


 そこにいたのは例の車椅子の青年と、銀色の猫だった。猫はちょっとした犬ぐらいはある精悍な体躯に見事な霜混じりの毛並みを纏い、深紅のことを睨みつけてくる。


「君は、何者だ……」

 呆然と、青年が問いかけてきた。どうやら自分がこの施設に入らせた少女であると、気付いていないようだ。この髪型の所為だろうか。あまりのボリュームに驚きながらも、燐がふたつに結んで送り出してくれた、このツインテール。


 それにしても、ケモノがこんな間近にいるのにこの人たちは何をしているのだろう。危険だとは思わないのかな。

 奇妙に思いつつも深紅は一人と一匹の前を通過し、ケモノの方へ向かった。


「ちょっとお邪魔します。すぐに終わらせて出て行きますから」


 体育館の広大なスペースを半分ほど埋め尽くして、白く漠然としたものがふわふわ漂っている。羊の姿をしていたはずのケモノが、今では靄のように輪郭を失い、辺り一面に広がっていた。これでは原形が何であったかも、既によく分からない。


「何よこれ、大きくなりすぎでしょう。ヘンなもの食べた所為ね」

 深紅は小声で呟いた。


 革袋を首から外す。袋に開いていた五つの穴に指を差し込み、くるりと裏返す。中からはもう一つ同じような革袋が現れ、同様に逆の手の指を入れて裏返す。深紅の両手には獣皮をなめした革の手袋が装着され、掌には袋の奥に収納されていた小ぶりなナイフがあった。折りたたみ式だが柄の部分まで金属で出来た簡素な造りをしている。


 深紅はぎごちない手つきで刃を引き出すと、金属の重みと温度を手袋越しに確認する。何より、熱いのだ。素手で持ったら忽ち掌が焼かれてしまうだろう。獣皮を通してもその攻撃的な熱量は伝わってくる。


「それは、狩主の……」


 背後から青年の声と、息を呑む気配がした。

 あまりじろじろ見られていると、深紅も何だかやりづらい。しかし、いきなりこんな格好で現れて刃物を取り出したのだから、注目するなと言うのも無理がある。やはり、さっさと終わらせて立ち去ろうと心に決める。


 天井高く聳える羊毛の前に立つ。

 こんなにも頼りなく柔らかそうなものを切ることが出来るのか、半信半疑のままナイフを押し当てた。するり、何の手応えも弾力さえも感じることなく、刃は羊毛に滑り込んだ。切る、というよりはむしろ溶かすと言う表現の方が似つかわしい。刃金の触れた部分からするすると消失していく。


 燐に言われていたとおりの、特別なナイフだった。ケモノに対する時にだけ、絶大な効力を発揮する。


「今日は結構、痛い思いもしたもの。お陰さまね」


 より正確には、贄華を口にしたケモノを滅する、それのみに特化した業物だった。


「あなた、食べ過ぎなのよ」


 深紅は手を振りかざし、漂う羊毛を片端から削り取っていく。黒板消しでかき消すように、或いは掃除機で吸い取ってしまうように、爽快感さえ伴って辺りを埋め尽す白いふわふわが無くなっていく。


 体育館の中で放埒に膨張していたコットン・キャンディが、今はみるみる溶けて消えていこうとしていた。


……目の前で展開するそんな光景を、カイはただ傍観するばかりだ。唖然としたまま、銀猫に訊く。


「彼女は……贄華ですよね」


 銀猫もまた食い入るように、大きなツインテールが揺れる少女の背中を見つめる。


「うむ、手前もよく見ておけ。まこと見事に『咲いて』おる。ここまでの代物にはそうそうお目にかかれやせん」


「しかし、狩主の刃を所持しています。しかも完全に活性状態だ。贄華喰らいを着実に処理している。あれこそ当世の、本物の刃でしょう。どこで入手したものなのか」


「奇っ怪よのう。手袋なんぞでどうにか出来るはずもない。贄華なら手にしたところで即座に腕が焼け落ちておるはず。響峯の理からも外れきっておる」


「何者なのですか。響峯の双子の片割れ、燐という名の少女ではないことは見ただけで明らかだ。しかし贄華は響峯の双子としてしか現れないはず。でしたらいったい」


「知るか。ウチが教えて欲しいわい。だが贄華にしてケモノを狩ろうとしとるなど、響峯の歴史においても前代未聞。贄華がケモノに喰らわれ、そのケモノを狩主が刃で滅する。そんな響峯の法を、根底からぶち壊そうとしておる。ヒヒッ……実に面白いじゃないか。ウチはこれを待っておったのかもしれんなあ。その手並み、しかと見せてもらおうぞ」


 さらに眼を剥き、舌舐めずりをしながら、銀猫はぴんと伸ばした尻尾を楽しげに震わせる。しかし同じ少女の姿を見ながら、戒はどこか不安げだ。


「あの、折角のお言葉ですがメイ様。彼女はあまり刃物の扱いに慣れていないようですね」


 背後で何を語られているかも露知らず、深紅は危なっかしい手つきでナイフをぐるぐる振り回している。持ち方も構えもあった物ではない。


「むうう、素人か。響峯でもないのならば当然かもしれんが、……こいつ、台所で包丁に触れたことさえ無いな。どこのおひい様じゃい」


 またしても、見込み違いとなりかねない。

 銀猫は憂鬱に尻尾を落とした。

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