第30話 惑う傍観者

 エンが羊毛の内側へと切り込んでから、しばらくが経っていた。


 外から見ているだけでは時折羊毛の壁がふるふると波打ってみせるばかりで、中で何が起こっているのかうかがい知ることはできない。


「贄華喰らいは彼の手に余るのではないですか?」


 カイが問いかけると、銀猫はあくび混じりに応じる。


「なに、この程度のケモノも倒せぬようなら、小僧も所詮そこまでの器だったと言うことさね。それで狩主カリヌシを名乗ろうなんざ、甘ちゃんにも程があろ」


 復活した妖羊との再戦は、煙にとって明らかに不利なものとなっていた。得物がちっぽけなナイフひとつでは、贄華の治癒力と渡り合うには相性が悪い。ダメージより回復の勢いが勝ってしまえば、多少の苦痛で怯ませることができたとしても、致命傷を与えられはしない。尻尾をいくらか切り刻んだところで、時間の無駄だった。


「ほれほれ、しっかりせい」


 銀猫がヤジを飛ばす。


「煩いな。黙ってろよ灰被り」


 ナイフを振り回しながら、煙は言い返す。


 効果のある攻撃ができそうな部分など、頭部くらいしか見当たらない。しかし膨大な羊毛の中を自在に移動し、脈絡無く出没する首をナイフで捉えるのは難しい。同様に動き回る角の存在も厄介だった。その上一度痛い目を見ているから、妖羊も迂闊に近寄ってこようとなどしない。


「埒が明かないぜ。だったら一か八か」


 煙はモコモコと波打つ羊毛の壁に切りつけた。生じた裂け目をぐいぐい掻き分け、その隙間に自分の身体をねじ込んでいく。


 ひゃひゃっ、それを見た銀色の猫が笑う。


「面白い。敵に近づくために、敵の内側に入り込もうってえのかい。危ういねえ、賭けにしても分が悪すぎる。全方位から攻撃喰らいまくって避けようもなかろ。焦れて我慢できなくなったんだろうが、莫迦にも程がある。こいつは愉快だねえ」


「先刻は相手をおびき寄せ、今度は自ら打って出る。相手のウィークポイントに近づける可能性はありますが、それにしても無謀が過ぎますね。餌が口の中に飛び込んでいくようなものでしょう。……嗚呼、実に羨ましい。僕が替わってあげたいくらいだ」

 戒は口惜しそうに嘆息する。


 ふしゅるしゅるしゅる。妖羊も笑わずにいられない。


「コレハコレハ、自分カラ食ベラレニ来テクレルトハ。丁重ニ歓迎シテ差シ上ゲネバ……」


 内側に潜り込んだ煙の後を追い、妖羊の首も羊毛の中へと沈み込んでいった。


 首も角も姿を消し、体育館には湖沼を覆う霞のようにひたすらふわふわ羊毛だけが広がっている。その前に銀色の猫と車椅子の青年が取り残されたまま、時間だけが経過していく。


「せめて、狩主の刃が本物であれば、彼にも分があったかもしれませんね」

 ぽつりと、戒が言う。


「詮無いことを。役目を終えた抜け殻じゃが、小僧の得物も偽物ではないぞ。むしろ由緒だけなら正しいのだぞ」

 ヒヒヒ……、低く銀猫が笑う。

「どう見ても問題は贄華の方だろうが。羊めに餌付け済みということは、あの小娘、やはりまだこの近辺におるはず。どうやって身を潜めとるのか」


「響峯の片割れですね。表と裏、両方の手を尽くして探したのです。ここまで完璧に姿を晒さずに行動するなんて、現実的にはあり得ない。正直なところ僕としては、もうケモノにでも喰らい尽くされてしまったのだと考えていました」


「阿呆うが。学究の徒などと気取っておいて、全く手前は分かっとらん。贄華ニエハナだぞ、喰らわれたくらいでどうにかなる物ではないわ。まことの不滅が意味するところ、手前などには想像もできないのだろうな。贄華を損なうことなど何者をもってしても不可能。……ただひとつ、響峯それ自身に因らざればな」


「ええ、実に興味深いですね、響峯の構築しているシステムというものは。ケモノと呼ばれる災厄に呼応して、周期的に生まれてくる双子。狩主と贄華。そして狩主の刃……ああ、データが欲しい。煙君だけでは到底足らない、もっとサンプルが欲しいのですよ」


 狂おしく身を震わせ、戒は車椅子の肘掛けに爪を立てる。


「手前も業が深いの。研究だの実験だの称して小僧の心身を散々玩んどきながら、まだ物足りないとほざくか。その様子では、小娘のことも野放しにしておく気は無いのだろう?」


「ええ、存在が確認できたらすぐにでも入手したいところです。手段など選んでいられない」


 そんな戒を横目で睨めつけ、銀猫はひひひと笑う。


「くわばらくわばら。ここにも一匹ケダモノがおるわ。まあ好きにすればよかろ。しかし小娘め、妙な動きを見せよる。自ら響峯を捨て狩主と断絶しておきながら、ケモノに贄華を与えるなど矛盾しておろう」


「そうなのですか?一四歳でしょう、当人の意図するものとはかぎらないのでは。単なる偶発事故であるとか、或いは消息不明である点からすれば第三者に略取、監禁されて何らかの強制を仕向けられた結果とも考えられませんか」


「手前じゃあるまいし、そんな胡乱な輩が他にもいるってえのかい?低俗な発想だのう。贄華はそこいらの人どもが手を出してどうこうできるようなシロモノではない。しかもあの小娘、同い年だからと言って小僧と同列には考えない方が良いぞ」


「ふむ、ますます興味深い。そそられますね……」


「手前も、手を出すなら用心することじゃ。ひとつ下手を打てば、喰らわれているのは手前の方になりかねんのだぞい」


 低く、銀猫が笑う。戒も愉快そうに顔を歪ませた。


「それはそれで、望むところなのですよ」


「フフン、救いようがないのう変質者め」


「しかし、贄華の少女が自らの意思で行動しているとすれば、やはり響峯であることとの齟齬は明白ですね。現状ではケモノを強化し、暴走させるだけの単純な生贄だ」


「左様。たとえ狩主の刃を持ち去っていたとしても、それを扱うことは贄華にはできない。故に、ケモノに与するだけの小娘の行いなど、響峯において意味は無い」


「たしか贄華は狩主の刃に触れることさえできないのでしたね。狩主と贄華の明確な役割分担、それこそが響峯のシステムの根幹をなしている。そのシステムが崩壊している現状では、やはり彼女の行動の説明が付かなくなる」


「手前如きの頭でっかちが、きっちり解釈つけようなんぞ烏滸がましいのよ。贄華とて一四の娘、筋道なんぞ矛盾するのが当たり前。ただ自棄を起こしているだけでもおかしゅうない。そういうものだと思っとくのが丁度良いさね」


 銀猫はひとつあくびをすると、床の上に丸くなって目を閉じた。一向に変化が見られない状況に退屈したようだ。


 戒だけがうねる羊毛を注視し続ける。


「贄華の関与で、今煙君は苦境に追い込まれている。今までは狩主の刃なしでもどうにかケモノを退けてきたが、今度ばかりは不利がすぎます」


「これまではまあ、ようやっておったと言えなくもない。いかに分が悪かろうと、ここで今更立ち止まることも出来まいが」


「狩主として選ばれた者の務めだとか、そんなことを言っていました」


 目を瞑ったまま、銀猫はニヤリと笑う。


「ガキめ、お為ごかしをほざく。おのれの臓物を直視する度胸もないか。ここまで来れば未熟もいっそ傲慢よのう」


「哀れだとおっしゃいますか。嗚呼口惜しい。やはり僕には、彼のことが羨ましくて仕方ない」


「響峯の加護もなくケモノに挑もうとしとるのじゃ。しかもおのれらの手で響峯を壊したと理解しておきながら。愚かと言ってしまえば、愚かなのじゃろうな。ウチも散々見飽きてきた、これが響峯という生き物よ」


 そのとき、長らく鎮まっていた羊毛の雲海が、それ自体巨大な心臓になったかのように激しく脈動した。続いてすべての毛を小刻みに震わせながら、ゆったりと波打つ。


 戒はサングラス越しにその光景を見ていた。

「これは、喜んでいるのか。煙君は……」


「いよいよ落とされたか。フン。小僧め、もう少し出来ると思うたのだが」

 見込み違いか。つまらん……銀猫は心中で独りごちた。

「冴えない結末よのう、仕方の無い。結局此度も、ウチがやるしかないのか」


 よっこいしょ。億劫そうに身体を起こすと、四肢を踏ん張って立ち上がる。尻尾をぴんと伸ばし、ぶるりと全身を震わせた。すべての体毛が逆立ち、サイズが一回り二回り大きくなったように見える。いや実際に大きくなりつつあった。


「おお、冥様。そのお姿は……」

 戒がサングラスの下から恍惚とした眼差しを向ける。惚れ惚れと銀猫に語りかける。

「紛うことなく、あの時の」


 その声が遮られた。ぎい、と不調法に軋んだ音を立てて扉が開く。銀猫と戒のすぐ背後、通用口らしき飾り気のないドアだった。


 暗い体育館内に、まばゆい光が溢れ出す。強烈な碧い蛍光を放つ何かがそこに立っていた。戒はしばし視界を奪われ、銀猫は振り向きざまに目を見張る。


「まさかこの輝きは、贄華」


 主たる光源は、ふたつに分けられ豊かに流れ落ちる碧い髪だった。大きく膨らみながら床すれすれにまで達している。


 輝くツインテールの少女はその肌をも仄白く発光させ、戸惑いの表情を浮かべていた。


 呆気にとられる一匹と一人を前にして、


「ええと……ごめんください」


 小首をかしげて、そう言った。

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