第29話 白濁した闇2

「お前……羊か?」

 背後から呼びかける。


 男はエンの来訪に気付いたのか、ふらりと立ち上がった。


「遅かったのだ、ミチコさん」


 振り向いた男の首から上は、人ではなかった。黒い毛の羊のものだ。口元からはぼたぼたと鮮血がこぼれている。足下には、原型もわからないほどに蚕食された双子の仔羊の残骸が散らばる。


「でも大丈夫。ミツのこともミキのことも、パパが守ったのだ。もうケモノなんて怖くないんだよ。次はミチコさんの番だからね」


 黒い羊は、優しく笑った。心の底から、優しく。


「お前、ケモノのくせに……」


 煙はナイフを構え直した。


「俺はパパだから。みんなのことを守ってみせるのだ。さあ、ミチコさんもこっちへおいで」


 黒い羊男は血塗れの手をさしのべながら、煙の方へと歩み寄る。


「お前は先ず自分のその手をちゃんと見ろよ。目を逸らすな」


「何を言っているのかな。ケモノが怖くて混乱しているのかい。もう大丈夫だから、俺のところへおいでよミチコさん」


 煙の目の前に立ち、血に染まったセーターの胸元に抱き留めようと両手を広げる。 


「寄るなケダモノ。誰がミチコサンだ」


 煙はナイフを一閃し、黒羊の鼻面を切りつける。避けようともしない羊男の顔は、まともに抉られていた。


「痛い……痛いよミチコさん。どうして、こんな非道いこと」


「非道いのはお前だろ、聞き分けのない。それじゃあミチコからのお願いだぜ。……ねえパパ、後ろを見てよ。あなたの後ろ、そこのテレビの前を」

 情感たっぷりに、煙は声音を操ってみせる。


「どうしたのかな、そんなところ」


 ミチコの言葉なら素直に届くようだ。きょとんとした顔で、羊男は言われたままに振り向いてみせる。振り向いて……顎が落ちたように口を開く。


「ぁ、ぁあ、あああああああ!」

 そのまま、絶叫した。


「ミツ!ミキ!どうして……誰が、誰がこんなこと!」


 煙はナイフの切っ先で羊男の顔を指し示す。作り込んだ声色で容赦なく宣告する。


「あなたでしょう、この人でなし。この部屋にいたのは、あなただけなのよ」


「俺はそんなことしない、できるはず無い。俺はパパだぞ」


「あなたの手を染める血は何。あなたの口の中に充満する血の味は誰の物?このケダモノっ」


 狼狽えた羊男はアフロヘアをぐしゃぐしゃに掻きまぜる。黒々としていた髪が、みるみる色を失っていく。


「嘘だ、嘘だ嘘だ。あり得ないだろそんなこと。なんでそんな非道いことを言うのだ。俺のミチコさんはそんなこと言わない。言うはずない」


 その場にうずくまると、絨毯に鼻を埋めながらアフロを掻き毟り続ける。その髪色は既に白い。


 ……その手がぴたりと止まる。


「ああ……わかったのだ。さては、お前ミチコさんじゃないな。お前こそミチコさんに化けたケモノだろう。ミチコさんのことを食べて、その上ミツとミキまでっ」


 羊男は顔を上げ、見開ききった目で煙のことを睨みつけながら立ち上がる。掻きすぎて傷だらけとなった頭蓋から血が流れ、その目尻から溢れだしていた。


「このケモノめ、ミチコさんを返せ。ミツとミキを返せ。俺の家族を、返すのだっ」


 ナイフを眼前に構え、煙も真っ向から睨み返す。


「そうやってお前は、最後の家族まで手に掛けたんだな。ミチコさんもさぞや無念だっただろうな……家族を守ってくれるはずだと、いちばん信頼していたその人に、何もかも喰らわれたんだから」


「許さない。俺の家族を喰らったケモノめ。許さないのだっ!」


 MUWWWWWWOOOOW!喉を膨らませ、羊男が轟然と叫ぶ。

 同時にその人の形をしていた肉体が破裂した。内側から羊毛が爆炎のごとく噴き上がる。


「くっ」


 不意を突かれ、煙は弾き飛ばされる。素早く体勢を立て直すと、周囲の光景は一変していた。


 大小の炎が立ちこめ、押し寄せる熱気がジリジリと頬を焼く。オレンジに揺らめく明かりが、床の上に散在する大量の人体の破片を照らし出す。血と臓物の臭いが辺り一面に充満していた。


「道場だって?あの日の、あの時の……また勝手にオレの記憶を」


 不意を突かれ、心構えもないままの場面転換に煙の気持ちがはじけ飛ぶ。巻き起こる感情の乱気流にもみくちゃにされる。


 呆然と座り込む煙の目の前を塞いで、艶やかに焔を照り返す漆黒の毛皮があった。猫科特有の獰猛かつしなやかな肉体が少年を圧倒し、堆くそびえ立つ。


「燐……」


 首を上げれば、赤と青、色違いの眼が冷ややかに煙を見下ろしていた。


「オレは、やり直すんだ……今度こそ」


 碌に構えることもできないまま、震える手でナイフを振りかざす。まるで初めて刃物を持った幼子の手つきだ。


 そして、思わずにはいられない。なんて、綺麗なのだろう。見つめてくる獣の眼差しを受け止めながら、そのふたつの異なる彩りに酔い痴れる。


 ナイフを振り上げたまま、煙は動くことができない。


「今度こそ、オレは、オレは、オレは、オレは……」


 単調なつぶやきを、ただ繰り返し、繰り返して。


 挙げ句の果てに……ナイフを取り落とした。


「……オレには、まだできない」


 見下ろす獣の眼に、明白な落胆の色が浮かぶ。


 腰が抜けたように脱力したまま、少年は床にへたり込む。


「喰ってくれよ、燐」


 同じだ、あの時と。何も成長してやしない。結局オレは、燐に懇願することしかできない。


 もう一度繰り返すことになるのか。燐はオレに失望し、オレを見限る。オレを拒んで、見捨てて、置き去りにして……。


「良カロウナノダ」

 降り注いだのは羊の声だった。

「食ベテアゲルヨ、みちこサン」


 唖然となって、煙は見上げる。ニヤニヤ嗤う妖羊の顔がそこにあった。


「……くっ!」


 漸く思い出す。全部、羊に見せられていた幻じゃないか。


 一気に雪崩れ落ちてくる分厚い羊毛が煙を呑み込み、押し倒す。のし掛かるケモノの重量に、たちまち身動きが封じられる。


「ヤット捕マエタヨ、俺ノみちこサン。モウ何処ヘモ行カセナイ。モウ裏切ラセナイノダ。サア俺タチノ家族ノ時間ヲ再開シヨウ」


 藻掻く少年の間近へと、羊毛から浮上した妖羊の首が迫る。


「勝手を抜かせ。ご免だぜ」


 煙は顔を背けて吐き捨てた。

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