第28話 白濁した闇1
視界一面の白い闇は、澱んだミルクの底にでも沈められているかのようだった。
濃霧は息苦しいほどの密度で辺りに充満している。生地の多いゴシックドレスはじっとりと水分を含み、重みを増して纏わり付いてくる。
たどるべき道もなく目印になる物さえない、延々と続く単調すぎる光景に頭がぼんやりしてくる。意識までがうろうろと迷い始め、煙の思考は脈絡を失っていく。
「どうして、燐は……」
その名を、呟かずにはいられない。
妖羊の見せた治癒力は、明らかに贄華を取り込んでいるものだった。それは即ち、響峯の片割れを、その血肉を口にしていると言うことだ。
「……何であんな奴に」
贄華をケモノに分け与える。それ自体は響峯に生まれついた者の定めであり、贄華に選ばれた響峯の子が担うべき務めだ。ただしその行為は、響峯の双子が揃うことで初めて意味を持つ。
だが今となっては。
「燐が何をしたって、無駄でしかないのに」
響峯は壊れてしまったのだから。
「だから、どうせオレのしていることだってさ」
本来の響峯のお役目に比べれば、幼稚な戯れ事に過ぎない。
それでも、煙は足下の地面を蹴りつけながら歩いている。ぐだぐだと迷いながらも、どうにかこうにか前へと進む。
「可笑しいだろ?笑っちゃうよな、こんな格好までしてさ」
スカートのフリルを摘まみ上げてみる。
そのままぎゅっと握りしめる。
「でも決めたんだ。狩主に選ばれたのはオレだもの。こうなったら燐の分まで、響峯の全部をオレが背負ってやるんだ」
そのためだったら使えるものは何でも利用してやる。あの得体の知れない妖怪じみた竈猫も、戯(おど)けているのか真性なのか、底の知れない先生のことも。
「だからさ。燐はもう、余計なことはしなくて良いのにさ」
もうこれ以上、燐が傷を負う必要なんて無い。
「なのに、どうして燐は……」
肉体を削って、分け与えたりしたのか。それを喰らったケモノのことを思うと、煙の気持ちはざわざわと波立ってしまう。
「……何であんな奴に」
そっと、青い右目を手のひらで覆う。
行く当ての無い思考は、何度目かのループを繰り返す。
いくら歩き続けても濃霧は晴れることなく漂い、一向に風景らしき物も見えてこない。
不意に白い闇の中から厳めしい構えの家屋が浮かび上がった。延々と連なりのし掛かる、黒々とした瓦屋根に見覚えがある。
「これは……響峯の屋敷だって?焼け落ちたはずなのに」
唐突な出現に煙は暫しその前に立ち止まり、まじまじと見上げた。
「オレの記憶が勝手に使われている?何を見せられているのか……」
先刻出遭った黒猫の姿が脳裏をよぎる。赤と青、二色の瞳。あんなものを見た所為で、以前の記憶が呼び覚まされやすくなっているのだろう。
煙は首を振り、付きまとうビジョンを振り払った。
重々しい造りの玄関に立つ。格子戸に手をかければ、からからと抵抗もなく開いた。覗き込めば屋内にまで霧が充満しており、上がり
「竹蔵さんか、横井か、みつさんか……いずれにせよ、亡霊の類いだよな」
煙は無造作に敷居を越えると、ブーツを脱ぎもせず三和土から板の間へと土足で上がり込む。見渡せば、邸内にはまだ複数の白い影が寄る辺なく漂っており、近寄ればゆらりと煙の方へたなびいてみせた。だが彼らの一切を無視したまま磨き抜かれた板張りの廊下をヒールで踏みつけ、勝手知ったる間取りを先へ進んだ。
記憶が指し示すまま襖を立て続けに開け放ち、奥へ奥へと幾重にも現れる座敷の畳を踏み分けて行く。これほどまで深い構造だっただろうか。靴裏の沈むい草の感触にも慣れた頃、煙は漸く奥の間の前へとたどり着いた。
そこは響峯の当主に与えられる部屋であり、半年あまり前に僅か一四歳の少年が寝起きを定められた場所だった。一人きりとなった煙が夜ごと天井板を眺め、のし掛かってくる不安に押しつぶされそうになりながら、朝の到来を拒もうと輾転反側を繰り返していたひと間だ。
その頃だった。枕元にはあの竈猫が現れるようになって……。
記憶が勝手に引きずり出されはじめ、煙を当時に連れ戻そうとする。パチン。両頬を挟み込むように叩いた。
「流されるなよ、奴の思うつぼだろ」
襖の前に立つと、その向こうから甲高い声で交わされる会話が漏れてきた。楽しげに、時に転がるような笑いまで交えて。だが、どんな言語を使っているのか、内容を聞き取ることができない。
それは二人分の、幼げな声。煙が一人になる前までは、奥座敷は響峯の子供たちを育てるための部屋だった。ならば、きっとこの声は……。再びあふれ出す記憶に感情が波立ちそうになるが、ぐっと抑え込む。
「さて、何が出てくるか」
一息に、襖を開け放つ。
果たして中は、……子供部屋だった。ただし、煙の記憶にある和室ではない。
「なんだよ、これは」
そこはパステルトーンの散りばめられた、マンションの手狭な一室となっていた。玩具やぬいぐるみが所狭しとゴロゴロ床に転がっている。
部屋の中央、はだけられた布団の上にはちょこんと二匹の小さな羊がいた。侵入者に驚いた双子の仔羊はぴょんと跳び上がるとメエメエ言い争うようにわめき合う。そのまま呆気にとられている煙を尻目に部屋を飛び出すと、一目散に畳の上を駆け抜けていった。
パタパタ、メエメエ蹄の音と鳴き声が遠ざかっていくのを唖然と見送り、室内に目を戻す。拭き取られたように景色は一変し、そこには煙の見知った和室があった。
「これ、狩主の間だよな。……記憶とかイメージが羊の奴とごちゃ混ぜになっているのか」
部屋に入り、乱れたままの寝具を確認してみる。煙の使用していた物に違いなかった。
そこへ、咆哮が聞こえてきた。夜の静寂をつんざいて、轟いた声。その震動に障子や襖がビリビリと鳴る。
「これは……」
煙は思わず耳を覆う。間違えようも無い。かつて、あの夜、この場所で聞いた物と同一な、ケモノの叫び。あの時もこうして布団の上に飛び起きて、それから……。
いや違う。あの時は初めて聞くケモノの声に布団を被ったまま動けずにいた。枕元に現れた竈猫に散々煽られた挙げ句におどおどと這い出てきて、それでようやく……。
「だからなんだよ」
煙はブーツで枕を蹴り飛ばす。
「昔のことだろ。今のオレじゃない」
煙は荒々しく部屋を出て、畳の上に残されている羊たちの足跡を追った。あの二匹はきっと、響峯の双子だ。だったら行き先はわかっている。あの夜、怯えきった煙が目指した場所と同じ、この屋敷の地下に設えられた道場と呼ばれる空間。今、巨大な何かが仔羊たちを迎えて、そこで叫び、暴れている。
座敷から廊下を抜け、階段を下る。先刻までは純然たる日本家屋の造りであったはずだが、そこここにマンション内装のイメージが歪なモザイクとなって混入してきていた。
「薄気味悪いぜ。境界が曖昧になってきているのか。羊の奴に取り込まれつつあるのなら、不味いよな」
つづらに折れ曲がる度スピードを上げながら、やけに長い階段を下る。なおも深いところから伝わる、巨大な何かが暴れ狂う気配。
この先に、あの日のケモノがいるはずだった。否応も無く脳裏に再生される、先刻の黒い猫のちっぽけな姿。赤と青の瞳。そしてあの夜、焔の中で煌々と輝いていたふたつの色。煙は走りながら手の中のナイフを握り直す。今の煙だったら、やり直せるのだろうか。もう間違えることはないだろうか。今度こそ、成し遂げられるのだろうか。
「オレは……燐の望んだとおり」
滑り落ちるように階段を下りきると、煙はその勢いのまま正面の扉を蹴り破る。しかし飛び込んだ室内は、煙の想定していた道場ではなかった。
そこはありふれたマンションの、どこかで見たようなダイニングキッチン。和やかな日常こそが相応しい、一家団欒のステージ。
「またかよ」
気勢をそがれ、煙は蹈鞴を踏む。
寸前までの暴力的な騒音はぴたりと止み、室内は嘘のように静まりかえっていた。ソファの向こう、テレビの前でひとりの男が背中を見せてうずくまっている。白いセーターに、見事なボリュームの黒々としたアフロヘアだった。
「お前……羊か?」
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