第27話 月光
小窓から注ぐ月明かりも血に濁った色をしていて、遙かに仰ぐ天井はもやもやと黒ずみくすんでいた。
ただぼんやりと、
どうにか微かに、呼吸はある。
まだ、生きている。
そうでもないか……こんなの死んでいないだけだ。
自分の身体の状態を知ることもできない。全身の痛覚は滅茶苦茶に喚き立てるばかりで、何も教えてくれない。どこが残存していて、どこが奪われたのか。動かせる部分など殆ど無い。喉も裂かれているようで、声も出ない。
ただ涙だけが、静かに流れ出しているのが感じられた。
ほんのひとくちの
それが尽きたとき、深紅は終わる。
結局、あの昏い穴に落ちていくことになるんだ。
瞼を閉じる。血の混じった涙が、目尻からぬるい体温を滴らせる。
『泣いているの?』
……痛いんだもの。
『寂しかったのかしら』
……違う。遅いのよ、莫迦。
目を開けると、小窓を開けて黒猫が室内を覗き込んでいた。
『誰もいないんだ。ふふっ』
するり。黒猫が窓から滑り込み、その身を翻す。
差し込む月光の中、床に降り立つ姿はひとりの少女に変化していた。窓からの淡い明かりに臆面も無く白い裸身を晒し、深紅の方へと歩み寄る。いくつか年下らしいその躰は、深紅から見てもまだ未成熟で発育が良いとは言いがたいものだ。
傍らまで来ると、その赤と青、ふたつの瞳で原形を殆ど喪った深紅を見下ろす。瀕死の深紅にも顔色一つ変えず、むしろ部屋中に塗り広げられた深紅の血を見渡して満足げに告げた。
「まあ、見事に咲いて見せたものね。ずいぶん派手にヤられたじゃない?ご加減は
「……ヒュゥッ……」
肝心の時にいなかったくせに。言い返したくても破れた喉から息が漏れるばかりで、声にならない。
少女は部屋の隅に革袋を見つけると、口紐の端を摘まみ上げて戻ってきた。
「はい、落とし物。また油断したんでしょう。贄華を与えたらその直後に気をつけるよう、何度も言ったのにね。聞き分けのないひと」
でも深紅には、せめてもの不満を込めて見上げることしかできない。
そんな眼差しをすくい取ると、少女は深紅に被さるように身を寄せ、含み笑いを伴って耳元へ口を寄せた。
「ふふっ気分はどう?今日こそは理解できたかしら。どんなに壊されても、死ぬことさえ出来ない。これが
少女はその細い手を血に塗れた肌に這わせ、えぐり取られた脇腹の穴へと優しくあてがう。その縁を慈しむようになぞると……呼吸に合わせて波打つ肉と内蔵と血だまりに、指を突き立て、握り込んだ。
「……っっ!」
新たに爆発した痛みに、息が詰まる。
「うわぁ……深紅の中、ぬるぬるしててすごく熱い。ねえ、痛い?苦しい?あたしの指が深紅の中で動いてるのわかるかしら。ほら……ほら」
「……ひぅっ!……ひぅっ……」
手首までが腹中に潜り込み、いちばん深いところまで指先を伸ばしてゆるゆるとかき混ぜる。その動きに合わせて痙攣する深紅を見下ろし、燐は満ち足りた笑みを浮かべる。
「良い反応。敏感なのね……ほら、深紅にもこんなに可愛いところがあるじゃない。もっとあたしに見せて欲しいな」
ちゃぷちゃぷと
「良い感じに
わざとじゃないのに。
そう言いたくても声に出せない。
血の気は失せ、激痛に引きつりながらも不満げな表情の深紅に対し、燐が顔を寄せる。
「ほら深紅、口を開けて」
ごりっ、舌先を咬み切る音がして、燐の顔が降りてくる。
高めの体温を帯びたまま、どっと、深紅の口中に注ぎ込まれる燐の体液と小さな肉片。熱いそれを飲み下せば、忽ち全身に染み渡り、破損だらけの細胞が活性化して修復が始まる。淡い蛍光が波紋を描いて隅々まで浸透し、じわりと痛みが和らいでいく。
でも……今の深紅にひとくちでは足らない。
もっと、もっと必要。
体が求めるものだから、思わず首を伸ばして燐の口を貪ってしまう。
その勢いに燐も一瞬ひるんだが、対抗するように深紅の脇腹へとふたたび腕を差し伸べた。傷口から熱い腹中に潜り込ませた手をなだめるように泳がせ、その反応を楽しみながら積極的に応じてくる。
ふたたび炸裂する痛みに脳内を掻き混ぜられながら、深紅も乱雑に燐の口へとむしゃぶりつく。
先刻の食餌の何倍の量が流し込まれただろう。
「ふう……」
満足げに燐が顔を上げる。
漸く解放された時には、あれほどボロボロだった深紅の体がほぼ元通りに回復していた。なめらかな肌には傷ひとつ残らない。
「ほら、零してる」
燐は深紅の口の端に残った自分の血を、指で掬ってぺろりと舐めとってみせる。その生々しいピンク色の舌先も、新たに再生されたものだった。
「あーあ、押し出されちゃった」
未だ落ち着かない呼吸に波打っている深紅のお腹のあたりを、燐は名残惜しそうに撫でさすりながら、続ける。
「さあ、狩りはまだ終わってないでしょう。続きを……」
つづき……?
深紅は茫と霞んだ頭の中で自問する。
何の続きだっけ。
もう終わり?違うよね……こんな状態でなんて。
まだだよ……もっと、もっと必要。
力強さを取り戻して、深紅の動悸と呼吸が加速する。
「そう、まだだよ」
お腹の上で遊んでいる悪戯な手を、捕まえる。
「足りないの、まだ全然」
戻ってきた体力のままに、燐をマットの上に投げ出す。
「え、あれ?」
戸惑いの声を上げる燐を、そのまま押さえつけた。
「あの、深紅……さん?」
「ダメだよ、こんな中途半端じゃ。わかるでしょ。燐が私をこんなにしたんだから」
「ちょっ……」
止められない。
深紅は燐の剥き出しな首筋に喰らいついていた。
あふれ出す膨大な血流を、一滴も残すまいと啜り上げる。
衝動を満たす甘美な味わいに、脳裏が火花で溢れかえる。
意識の
暴走のままに、目の前の少女の血と肉を蹂躙していく。
「もう、仕方ないなあ……」
痛みはあるのだろう。
僅かに眉根を顰ませながらも慣れた態度で身を任せ、燐は宙を仰いだ。
小窓からの微かな明かりがその顔に落ちかかる。
「ああ、月が綺麗」
食餌に没入する深紅の頭を抱き寄せながら、燐は穏やかに呟いた。
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