第26話 羊と踊る3


「相変わらず無駄によく喋るな。オレが黙らせてやるよ」


 ダンッ。エンのブーツが床板を蹴り、妖羊との距離を一息に詰めた。


 ナイフが妖羊の眉間に吸い込まれる。

 だがその切っ先が到達する前に、するりと妖羊の顔が羊毛の雲に沈み込み、替わって棘の密集した角が浮かび上がってきた。

 躰を捻りながら素早く腕を引いたが、ドレスの袖がすだれ状に引き裂かれる。


「ちぇっ、破けたじゃん。また先生にぼやかれる」


 煙はボロボロになった袖を千切って捨てる。


 だらりと下ろした肘の辺りから、血が滴り落ちた。回避しきれていなかったようだ。傷ついた右手から左手にナイフを持ち替える。


「ま、丁度良いハンデかな」


 露わになったしなやかな腕から新たな血の臭いが漂う。

 羊毛のあらぬ場所から妖羊が再び首を生やして鼻をひくつかせた。


「良イ……美味ソウ。ソノ柔ラカソウナオ手々カラ頂コウナノダ」


 でたらめな位置にせり出した二本の角が、絶えず移動しながらそのイガで少年を威嚇する。この羊毛でできた雲海の中を、妖羊のパーツが自在に遊泳しているようだ。


「キモい上に面倒くさいぜ。さて、どう攻めるか……なっ」


 黒衣の少年が壁面方向へ跳んだ。

 バスケのゴールリングを足場に、バネを利用して巨大な妖羊の頭上へ高々と身を翻す。呆気にとられた妖羊を越えて、豪奢なフリルが宙を舞う。


「ほら、見っけた」


 軽やかに背後を取ると、床の上にはみ出していた尻尾に着地の勢いのまま左手のナイフを突き立てた。


「お、手応え有り。やっぱりここは動かせないのか」


 MUGUUUEEEE!

 妖羊が咆哮した。


「こんなとこが有効なのかよ」


「痛イ。痛イノダ。許サナイノダ。絶対喰ッテヤルノダッ」


 ふしゅうるる。鼻息荒く妖羊がいきり立つ。巨体をもこもこと揺るがし、煙に向き直ろうとする。


「そうとわかれば、狙わせてもらうぜ」


 煙が再び壁を蹴り、宙を舞う。


 妖羊も回避しようと試みるが、もとより動きが鈍い上にむやみに膨張した体躯が災いして煙の動きについて行けない。


 体育館の広大な空間を活用し、煙の華奢な躰が縦横無尽に薄闇をすり抜けていく。高度な体操選手の演技さながらの優美さだが、空疎な競技場に観衆は無く、感嘆も賛美も有りはしない。ここで行われているのは採点ゲームではなく、捕食をかけた命のやり取りだった。


 尻尾の先から切り刻まれていく妖羊が、苦痛と憤怒の叫びばかりを響かせる。


「痛イ。痛イ。痛イノダッ。喰ワセロナノダアア」

 

 MUGUUUEEEE!

 妖羊がよだれと涙をまき散らす。


「やなこった」


 ぺろりと舌を出し、高高度の中空からナイフを振り下ろす。


 その先、尻尾の付け根の辺りで羊毛が盛り上がった。

「しまっ……」


 潜んでいた角が破裂する勢いで突きだし、鋭いニードルの束が煙めがけて殺到する。空中からの慣性を載せた攻撃だったために回避がしきれない。


 カカカカッ。甲高い刺突音がバスケットのゴールボードに連続して奏でられた。

 ナイフを持つ左腕が縫い付けられ、少年の躰はゴールリングに高々と吊り下げられていた。


 しゅるしゅるしゅる。

 妖羊が満面の笑みを浮かべる。


「ヤット捕マエタア。イイ気ニナッテ同ジトコロバカリ狙ウカラソウイウコトニナルノダ。オ莫迦ナオ嬢チャン、チョットオ悪戯イタガ過ギタヨウダネ。コレハオ仕置キガ必要ナノダ」


 ふて腐れた顔をして、煙はそっぽを向く。

 妖羊は細い針を一本、むくれている頬すれすれに伸ばし、横に振って少年の顔を正面に向かせる。肌が薄く切れて、にじみ出す血が針を伝って滴った。


「ソノ右眼ダ。ソノ青イ輝キ。モット俺ヲ見ルノダ。ソウダ……ソレデ良イ」


 ふひゅうう。

 妖羊が恍惚に酔いしれた溜め息を吐く。


「オ嬢チャンモ、サゾヤ美味シイニ違イナイノダ。アノ娘トイイ、今日ハゴ馳走三昧ナノダ」


 吊されたまま身動きのとれない煙目指して、妖羊の首だけが羊毛の中からずるずると長く伸びていく。


「ドンナ味ガスルノカ、楽シミナノダ」


 粘つき光る臼歯にびっしり埋め尽くされた口蓋が開かれる。力なく垂らされたまま、まだ新鮮な血を滴らせている少年の右腕をくわえ込もうとする。


 その鼻先で、傷ついているはずの右手が空中で何かをつかみ取った。左手にあったはずのナイフだ。縫い止められた腕から手首のスナップでパスされていた。


「この距離なら、躱せないだろ」


 トッ。たいした衝撃もなく、ナイフの刃は妖羊の側頭部に根元まで滑り込んだ。


「フヒッ」


 妖羊の眼球がぐるりと裏返る。

 一拍おいて、妖羊の巨体が伸びきった首から崩れ落ちた。


 地響きの中、ニードルの縫い付けから解放され、煙は軽い靴音を立てて床に降り立つ。


「引っかかってくれてサンキュ。お莫迦なのはお前の方だぜ」


 傷だらけの右手をグーパー繰り返し、改めて具合を確認する。


「こいつ相手にこの程度で済んだのは上出来かな」


 背後の方、体育館を満たす暗闇の奥から声が掛かる。


「上出来だって?ふふん、今日の首尾のことかい?」


 銀色の毛並みをした猫が、底意地の悪い笑みを浮かべながらのっそりと現れた。


「小僧は相変わらず甘ちゃんだねえ」


「灰被りが、またオレの仕事にいちゃもんばっかり。終わってから来ておいてよく言うぜ。ほら、今日の獲物だぞ、後はあんたの好きにしてくれ」


「ああ……、また君はドレスを滅茶苦茶にして。それがどれほどの上物か君にはわからないのでしょうね。せっかく冥様が来てくださったのに、これでは意味がない。またにならない」


 銀猫に付き添ってきたカイが車椅子の上で嘆息し、天井を仰ぐ。


「先生の趣味にまでつきあってられるか。まともな服も少しは用意してくれよ」


「もう仕事を終えたつもりかい。暢気さねえ、小僧は。気付いてもないたあ」


 銀猫は倒れ伏す妖羊に歩み寄ると、臭いを嗅ぐ。


「なんだよ。まだ文句つけんの」


「浅はかだねえ。それで狩主かりぬしになろうてなあ。良く見いや……そいつ、贄華を喰らっているぞ」


「……はあっ?」


 煙は頓狂な声を上げてしまう。


「そんな莫迦な」


「莫迦はお前だ、粗忽者。ほら、来るぞい」


 ふしゅるるるるるる……。

 低く、細く。床に落ちていた妖羊の首から、呼気が漏れ出していた。


 白目を剥いていたはずが、今はしっかり煙のことを睨みつけている。

 こめかみに刺さっていたナイフがポロリと抜け落ちた。刻まれていた傷跡が碧い燐光を放ち、みるみる塞がりつつあった。


「こいつっ」


 煙がナイフを取り戻すのと、妖羊が巨体を引き起こすのがほぼ同時だった。


「オ早ウナノダ、オ嬢チャン。でぃなーノ続キニシヨウ」


 ギシギシ歯を擦り合わせ、妖羊が嗤った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る