第24話 羊と踊る1
館内に積もった沈黙を突き抜けて、騒乱の音は遠くから聞こえてきた。一度は見て回った場所のはずで、おそらくは用具倉庫があった辺りだ。
「ちっ。羊のヤツ、隠れていたのか」
少年は黒いドレスの裾を翻し、踵を返してこれまでのルートを駆け戻る。
油断があった。これまでの手合わせでは大抵羊の方から挑みかかってきていたため、今回もこちらが姿さえ見せれば勝手に攻撃してくるだろうと思い込んでいた。
ただし思い返せば過去にも一度例外はあった。羊が補食するための被害者を確保し、連れていたパターンだ。
「まさか誰かを?ったく、なんのために用意した舞台だよ」
今回は体育館という無人の閉鎖空間におびき寄せ、完全に一対一の勝負に持ち込む予定だった。通りがかりの一般人を巻き込まないように、むやみに面倒な目撃者を作らないようにして、存分に戦いに集中するはずだったのだが。
「なにしてんだ先生は。また余計なことをしたんじゃないだろうな」
後できっちり問いただしてやろう。と思ったが、今回は序盤から少年にもミスがあったので文句が言いづらい。
先ずは少年が羊を体育館に誘い込む手筈だったのだが、その初手から失敗していた。羊とのランデブー・ポイントへと到達する前に、予定外の相手と遭遇した所為だ。
藪から飛び出してきた、一匹の猫。
どこかで見たことのあるような、艶やかに黒い毛並み。
どこかで見たことのあるような、赤と青、左右それぞれの瞳の色。
見つけた瞬間に足が止まり、息が詰まった。
少年の記憶が強制的にフラッシュバックする。
爆ぜる火花、焼け落ちる屋敷の煙と、充満した血の臭い。
込み上げる嘔吐感に口元を覆った。
忘れられるはずもない。今、路上にいるそれは記憶に刻み込まれたものによく似ていた。だが、同一であるはずがない。重ね合わせるにはあまりにも……目の前のそれはちっぽけすぎる。あの日あの夜、少年の前に立ちはだかったものは、肉食獣のしなやかな肉体に溢れ出す精気を漲らせ、怜悧な眼差しで見下ろしてきて……。
「……
思わずその名を、呟いていた。
小さな黒猫もまた、完全に足が止まっていた。
互いを凝視したまま、どれほどの時が経過しただろうか。先に視線を逸らしたのは黒猫の方だった。音も立てず、公園の闇の中へと溶け込んでいく背中を追いかけそうになって、少年は思いとどまる。
あれは違う、ただの黒猫だ。燐のはずがない。
波立つ気持ちを抑え込み、役目を果たすために体育館へと急いだ。
だが結局色々と手遅れになって、車椅子の上から冷ややかな態度で出迎えられることになった。
「遅刻ですよ
「悪い、
「おや、素直に非を認めるとは気味が悪い。何かおかしなものでも食べたのでしょう」
「うん……猫が居たんだ」
ただの、野良猫が。
しかし猫と言えば青年にとっては特定の対象しか意味しない。
「猫?冥様が来ているんですか。姿が見えないようだけど」
碌な視力もないのに、サングラスで辺りを見渡す。
「違うよ、アイツじゃない。色が黒くて、眼の色が……、まあいいや。それよりも羊のヤツ見なかったか?多分こっちの方に向かったと思うんだ」
「それならもう檻に入場してもらいましたよ。僕が済ませておきました。本来なら
「得意じゃねえし。一四歳男子にこんな格好させている張本人が言うことかよ」
「冥様の為ですから。止むなし」
「絶対、先生の個人的趣味だよな。フン、オレの本分はここからなんだぜ。今度こそ決着つけてやる、待ってろよ羊」
「ところで冥様は?」
「知るか。また居眠りでもしているんだろ。オレは行く」
不満そうな青年をエントランス前に残して、少年は扉を潜り館内に潜む羊を探し始めたのだった。
ケモノの駆除を行う上で、この青年による様々な援助が役立っているのは間違いなかった。煙ひとりでは街におけるケモノの所在を掴むことさえ困難だっただろうし、こんな公共施設を丸ごとジャックするような真似に至ってはどうやって可能にしているのか想像もつかない。天涯孤独の状況に陥っている煙の現状では、普段の生活さえ色々と世話になっている。世間的には大層な評価をされている学者であり、家系的に財力も政治力も持ち合わせている、と言うことらしいのだが。
そんな人物が何故ここまでしてくれるのか。実のところ、煙の為にしている訳ではない。戒にとって煙は本命に付いてきたオマケに過ぎない。この学者の価値基準や思考ロジックはシンプルでありながら、それ故に根本的な部分で残念な壊れ方をしているように煙には思える。だからいつも、肝心な場面になるとこちらの都合を考慮してくれやしない。
……そして。
今もこうして暗い館内を用具室へと引き返しながら、煙は舌打ちさせられている。
「なんで部外者を入らせてるんだよ」
理由は想像が付く。羊に餌を与えておいて、肥え太らせておいた方があの銀猫が喜ぶ、そういう判断だろう。
良い迷惑だ。煙にとっては面倒が増えるだけだ。
せめて銀猫から言い聞かせてくれれば良いのだが。銀猫の言うことなら戒は何でも聞くはずだ。死ねと言われればむしろ本望とばかりに喜んで死ぬだろう。
だがあの偏屈な銀猫が素直に煙の頼みを聞いてくれるとは思えないし、こちらも死んでも頭を下げる気などない。
だいたい銀猫は身勝手で適当すぎるのだ。矢鱈とひとを小馬鹿にしながらつきまとってくるかと思えば、居眠りばかりして我関せずを決め込んだりもする。今日も姿を見せていない。まあその方が煩く干渉されなくて清々する。
小刻みな靴音を響かせつつブーツで通路の床を蹴り、用具倉庫の前へ駆け戻る。
しかし、たどり着いた頃には物音は静まりかえっていた。ついさっきまであれほど激しく、粗暴に活動する何かがこの中に居たはずなのに。
嫌な予感しかしない。
ごとり、金属の引き戸を開く。
濃厚な血の臭いが流れ出し、鼻を突いた。
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