第23話 暗い箱の中4


「良い……のか。喰っても。君を」


 ぐいと頭を引き寄せ、深紅シンクは碧く光る瞳で男の眼を深々と覗き込む。


「はい。問題ありません」


「が……あっあっ」


 パリッ。碧い閃光が顔前で弾ける。

 男の体が仰け反り、激しく痙攣した。ぶるぶると振動が伝わる度に白いアフロヘアが何倍にも膨らみ、ぐいぐい体積を増していく。見る間に男の姿がすっぽりその中に埋もれてしまった。

 深紅も呑み込まれないよう、少し距離をとる。


「良イ……ノダ。俺ハ、喰ラッテモ……」


 アフロヘアが肥大することで、用具倉庫の戸口の前を巨大な白い毛玉が塞いでいた。その両脇から巻き貝状の突起が生えてくる。

 ふしゅるるる。

 湿った呼気を臼歯の列から漏れ零し、細作りな鼻面が毛玉の中央ををかき分けせり出してきた。


「うわ、羊なんだ?悪趣味な造形」

 その姿を見て、深紅は首をすくめる。

「可愛くない……」


「守ルノダ……俺ガ」

 丸々とした毛球から短い前足がにょっきりはみ出し、蹄が床を踏みしめる。


 淡い蛍光を帯びた眼で、アフロ羊を正面から見据える。さあ、かかって来なさいよ。深紅は両手を広げた。


「君モ、俺ノモノナノダ」

 ごつり、ごつり、蹄が音を立て、ゆらゆら揺らぐ大きな毛球が歩み寄る。


 突き出された二本の角は表面が見た目以上に鋭くささくれ立っていた。受け止めようと深紅が軽く触れただけで、掌の表面を易々とすり下ろされる。破けた皮膚から鮮血がはじけ、羊の顔面に飛沫が散る。空気に混じった血の臭いに、羊は眼を細めて深く息を吸う。


「イイ……美味ソウ」


 深紅は表情一つ変えずにズタズタになった掌の傷と滲み出る血を確認すると、その左手をアフロ羊の鼻先に差し出した。


「美味しいらしいですよ。割と評判良いんです」


 アフロ羊は鼻を盛んにひくつかせると、歯並びの良い口を開き掌を咥える。生温かい口中で、堅い臼歯の羅列が上下から挟み込む感触。


 羊って、草食動物じゃなかったっけ。そんなことを考えているうちに、顎が閉じられる。すり潰す為の機能しか持たない歯が、手の組織を圧迫し、壊していく。水っぽい音と、硬いモノがパキパキ割れる音。噛み切ることなく、皮と肉と骨がひたすらに挽きつぶされ、まとめてミンチにされていく。


 ああ……痛い。やっぱり、当たり前に痛みがある。


 微かに眉根を顰め、深紅は黙々と咀嚼を繰り返す羊の頭部を見下ろした。痛みなんて病院で散々味わい尽くしたつもりだったが、この一口目の痛みにはなかなか慣れることができない。

 早く満たされてくれれば良いのに。


 熱い血と細かく千切られた骨と肉がスープとなって口中に溢れ、アフロ羊は我を忘れて啜り込む。のみ込みきれなかった分が口角から漏れ出し、床にこぼれ落ちる。


「美味イィ。美味イノダ」


 もったいないとばかりに顔面を突っ伏し、舌をむやみに伸ばして床まで舐め取っていく。

「オカシイ。コレハ異常ナノダ。美味スギルノダ」


 当然ですよ。贄華ニエハナ入りの特別製なんですから。

 忙しなく床に這う羊を見下ろしながら、深紅は内心で呟く。


 口中から解放された左手は原型を失い、襤褸切れのようになってぶら下がっていた。


 痛くてしかたない。早く修復を。


 額に汗の粒を浮かせ、深紅は意識を左手に集中させた。全身から仄かに放たれていた蛍光が、左手に強く表れ損壊した部分を包み込む。みるみる傷がふさがり失われたはずの組織が構成され、以前のままの左手がそこに現れた。もちろん角にすり下ろされたはずの右の掌も同様に、傷ひとつ残っていない。


 深紅はお腹の奥に蓄えられた贄華を量る。大丈夫そう、まだ充分に残っている。


 床を舐め尽くしたアフロ羊が血まみれの顔を上げる。その横に割れた瞳が深紅の姿を探し求め、捕らえる。


「モット、モット欲シイノダ!」


 まあ、そうなりますよね。深紅も羊の方に向き直る。


 ぶるり。そこでアフロ羊が全身を震わせ、狼狽うろたえを見せた。

 どうやら始まったようだ。羊の腹中に取り込まれた贄華が、羊の肉体にも影響を及ぼしだした。


「コレハ……ナンダ。俺ハ、ドウナッテ」


 震える度に、毛玉状のの巨体がさらにぐんぐんと膨張していく。巻き貝状の角から鋭い突起が密集して生え、ウニのような形状に変化する。並んだ臼歯が口から大きくせり出し、さらに分裂して口蓋の内側をびっしりと埋め尽くしていく。

 かつて、贄華の持つ力は死に損ないの深紅を病院から連れ出したが、今は怪物の肉体をも作り替えようとしていた。


「うう、さらに可愛くない。でもそのくらいの方がやりやすいかも」


 深紅は手探りで胸元を探り、首から提げていた革袋を取り出す。


「イイゾ。最高ナノダ!」

 羊は厳つく盛り上がった蹄で床をガシガシと掻き毟る。


「モット喰ワセルノノダアアァ」

 そのまま深紅の方へと突進してきた。


 深紅も避けようと身をひねる。しかし膨張しつつ迫り来る毛玉に目測が狂い、マットの上に弾き飛ばされた。


「あっ」


 手にしていた革袋もはね飛ばされていた。慌てて暗い倉庫内を見渡すと、アフロ羊の足下に見つけた。


 これ、まずいことになったかも。深紅の背筋に冷や汗が滲む。


「君ヲッ、モット、モット喰ウ。イイノダロウ?」


 ふしゅるる。

 何も知らないアフロ羊はお構いなしに床を掻き毟り革袋を部屋の隅へと蹴り飛ばす。そのまま深紅の居るマットの方へと再び突進してきた。


 深紅も革袋の方へ跳ぶ。しかしさらに巨大化した毛玉は低く身を伸ばした深紅を易々と絡め取り、マットに押し戻した。


 忽ち圧迫感に息が詰まり、身動きがとれなくなる。僅かに藻掻いてもさらにみっしりとした羊毛に絡まるばかりで自由が利かなくなっていく。焦るほどに羊毛の沼に溺れ、束縛が増していく。


 どういう構造になっているのか、一面を埋め尽くす高密度な羊毛の雲海から、アフロ羊の顔面がぽっかり深紅の目の前に浮かび上がった。

 ふしゅるるる。

 至近距離の肥大した歯茎から漏れ出す呼気が浴びせられ、ぼたぼたと唾液がこぼれ落ちてくる。横に潰れた羊の光彩が間近に深紅を捉え、堪えきれない喜びを湛えていた。


「安心スルノダ。コノ中ニサエ居レバ、君ハ幸セナノダ」


 ふしゅる、しゅる、しゅるる。

 アフロ羊が満足げに笑う。


「こうやって、これまで何人を腹の中に納めたのかしら」


「ミンナミンナ、嬉シソウダッタノダ。俺ニ委ネレバ、コノ世全部ノ痛ミモ苦シミモ消エテナクナル。君モ、俺ノ中デ幸セニナレ」


 四肢の動きは、完全に封じられていた。分厚い羊毛が胸を締め付け、呼吸もままならない。碧く蛍光する眼差しだけが深紅の意思を宿し、羊の双眸を睨めつける。


「好きにすれば良いのよ。それがあなたの願いなら」

 贄華は認めるもの。受け入れるものだから。


 深紅は自分に言い聞かせる。大丈夫だよね……大丈夫なはず。まだ、贄華のストックはあるもの。


「俺ハ。君ヲ。守ル。ノダ」


 巨大な臼歯の密集した口蓋が上下に分かれ、深紅の柔らかな腹部にあてがわれた。

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