第19話 黒猫の誘い3


 黒猫もケモノも、居なくなった……のだろうか。


 このまま無人の公園を、ひとりで歩いて行くことに何の意味があるだろう。

 立ち止まって、黒猫の後を追って引き返してみようか。そこに誰かしゃがみ込んでいて、夜道で出会った黒猫の頭を撫でているだけかもしれない。すみません、その猫ご迷惑かけませんでしたか。おやあなたの猫でしたか、可愛いですね。ええとまあ、そう見えますかね、あはは……とかなんとか。良かった、ケモノなんて初めからこの公園には居なかったんだ。めでたしめでたし。


 ……いくら何でも、都合が良すぎる。

 

 もし、想定していた通りのケモノが夜道に潜んで待ち構えていたならば。黒猫は捕まって既にケモノの餌食に……という展開はあの妖怪猫に限って考えにくい。むしろ気まぐれ病や意地悪病を発症して、深紅シンクのことを放置したままどこかへ行ってしまったのかも。ひとりだけケモノの前にノコノコ現れた深紅なんて、飛んで火に入るちっぽけな羽虫だ。もはや誰の助けもあり得ない状況でまな板の上にひとり載せられ、深紅は無事に贄華ニエハナのスイッチを入れることが出来るのだろうか。


 だったらむしろ、このまま全力で駆けだし、この場から逃げ出してしまおうか。まっすぐ家に帰って布団を被って全部忘れて寝てしまえば良い。

 ……しかしそれでは、深紅の方から黒猫を裏切ることになる。行方が分からなくなっている黒猫と、さらに離ればなれになってしまうだけではないか。


 迷いの泥濘ぬかるみにはまって、深紅の歩みは徐々に鈍る。


 どうする。どうしよう。


 遂に深紅の足が、止まる。


 その目の前に白い影が飛び出した。


「こっちだ」


 驚く間もなく手首が掴まれ、ぐいと前方に引っ張られる。白いセーターを来た男が木立の間から現れ、深紅の手を引いていた。


「さあ来たまえ、急いで」


 服ばかりではない。脱色したものか自前なのか、複雑に絡まり合って膨らんだ頭髪までもが見事に白い。迷っていた深紅は言われるままに、この白アフロの男に連れられて走り出していた。


「ええと、あの、あなたは?」


 つるりとした顔からは年齢の見当がまるでつかなかった。白髪だから高齢、というわけでは無さそうだ。体格は割とふくよかで、丸っこいシルエットをしている。 


「いいから、今は先ず逃げ切ろう。あいつは危険なのだ」


 危険。背後から迫っていた足音の主は、結局ケモノだったということか。手を引かれながら後ろを振り向いてみたが、やはり人影は見つけられず黒猫も見つからない。


「早くしなければ。俺についてきなさい」


 そう言って白アフロは手を引く。しかし、トコトコと前を進むその足取りはそこまで軽快なものではなかった。運動が得意ではない深紅にも優しいペースで、走っているにしてはゆったりした動きに見える。これではケモノがその気になれば、すぐに追いつかれてしまうだろう。まるでピンチを救うヒーローのように颯爽とした登場だっただけに、少し拍子抜けだった。


「君には危害を加えさせないから。俺に任せておいて」


 頼もしい言葉を、穏やかな口調で話す。緊急時であるはずなのに、落ち着いたものだ。走り方も深紅に配慮していると言うより、この男本来のものらしい。おっとりとしているが体力はあるようで、どんどんアスファルトを踏みしめていく。


「しかし、褒められたものではないなあ。君みたいな子供がこんな時間に、こんなところを出歩いているだなんて。あいつの餌食になるために来ているようなものなのだ」


 男は走りながら息も乱さずに、深紅のことをいさめる。


 ……なんてこと、言えるはずも無い。どうせ息も上がってきて、その余裕も無い。


 それよりも、黒猫からどんどん遠ざかってしまうことの方が気になっていた。

 結局どこ行っちゃったのかな。何か予定外の人が出てきちゃっているんですけど、どうしろって言うの。ナビゲートしてくれるんじゃなかったっけ。


 ねえ、リンってば。


 ここから先は全部私次第、そんなこと言ってはいたけど。いなくなるなんてやり過ぎでしょう。


「悪いが、もっと急ぐのだ」


 白アフロはさらに脚を速めた。実際のスピードがそれ程上がったわけでは無いが、それでも走り慣れていない深紅は足が縺れそうになる。力強くその手を引いて、男は先へ進む。


 薄暗い小道を抜けると、明るい街灯が立ち並ぶ開けた場所にたどり着いた。市民体育館の裏側をぐるりと回って、その正面の広場まで来たようだ。


 広い空間も夜の静けさに満たされ、人の気配はなかった。と思えば、体育館の入り口の方から声がかけられた。


「おや、どうかされましたか?」


 キュッ、とゴム製の車輪がエントランスのタイルを咬む音がした。車椅子に乗った男がこちらに声をかけてきている。


「少しここで待ってて」

 白アフロはひとまず深紅の手を離し、入り口の方へ歩み寄る。


「実は危険なやつに追われているのだ。すぐにここまで来るはずだから、あなたも逃げた方がいい」

 内容にそぐわず、のんびりと緊迫感のない口調は相変わらずだった。


「ふむ……、それはいけませんね。どうも最近は物騒なことばかりですから」


 怪訝な素振りは一瞬見せただけで、車椅子の男も落ち着いた様子で応じる。

 夜間にもかかわらずサングラスを掛けていて表情があまり窺えない。車椅子はスポーティかつスタイリッシュな、黒一色に塗装された特徴的なものだった。タイヤもゴムがみっしり詰まっているタイプだろう。電装パーツも豊富に取り付けられていて、自走さえ出来そうに見える。


「ちょうどいい、私はここの鍵を管理していますので、中に隠れてやり過ごしましょう。警察にも私から連絡しておきますから、早くこちらへ」

 車椅子の男は言いながらカードキーと肘掛けに備え付けられたコンソールを手早く操作し、エントランス脇の通用口らしき扉を開いた。


「これはありがたい。さあ君もこっちへ」


 白アフロが深紅を手招きする。


 このまま流れに身を任せておいて良いのだろうか。黒猫のことはどうしよう。ケモノは……贄華は?迷い、何も決められないまま、深紅は白アフロについていく。


「おや、君は……」

 車椅子の男は目もあまり良くないのか、そこで初めて深紅の存在に気付いたようだ。


「この子も追われていたのだ。一緒によろしく頼む」

 白アフロはそう言って、深紅を体育館に招き入れる。

 

 ぺこり。軽く頭を下げて、深紅も入り口を潜った。


 サングラスの男は車椅子の上から、奇妙なものでも見つけたかのようにニット帽の少女を見送っていた。


「ふむ……順序が違う。しかし、餌は多くても良いかな」


 ひとりそう呟くと、男は扉をロックした。

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