第18話 黒猫の誘い2
『もうすぐ、ケモノが来る時間よ。どうかしら、今夜の華の仕上がり具合は』
「どうって言われても、自分では」
お腹に手を当てると、奥にふつふつと
額のあたりが汗でしっとり湿っている様を見て、黒猫も納得したらしい。
『ふーん、いいじゃない。今夜の深紅は、どんな華を咲かせてくれるのかしら。くくっ、楽しみになってきたわね』
「こっちはそんなに楽しくないんですけど」
せめてもの不満を口調で表明してみせる。
『あらあら、深紅さんはケモノが苦手なのでしたっけ。そう言えば学校でもオトモダチの話、ずいぶんフクザツな顔して聞いていらしたでしょう』
何故かこの黒猫、学校の話になるとお嬢様っぽい口調を使いたがる。
「別に、ケモノについて話すこと自体は良いんだけど。ただ、面白半分で興味本位な扱い方をされてるんだなって思うと、何だかねえ……」
『実際にケモノとじゃれ合っているお立場としては、思うところもあるって?言ってやればいいのに、遊びじゃないんだゾ、ってさ』
「それこそ嫌。莫迦みたい」
ふて腐れ気味の深紅の顔を、黒猫はじっと見上げてくる。
『それにしても、不思議よね。深紅はケモノが怖くないの?』
「怖い……のかな。うん、まあ、本来そういうモノだよね」
『怯えて逃げ出されるよりはマシなんだけどさ。人を喰う怪物だよ、普通はもっと怖がって震えあがるんじゃない。良いんだけどなあ、もうちょっと泣いたり叫んだりしてくれても』
「やだ。それって
『むむ。良いじゃんちょっとくらい。張り合いないなあ。なんでこう可愛げないかなあ』
「可愛くなくて結構です。何かこう……今更な感じがするのよね」
ケモノという圧倒的な暴力と、これから直面しなければならない。しかし深紅の中では恐怖という感情が摩耗してしまっているらしい。
理由の一つに病院での体験があるのは確かだろう。深紅は死と戯れすぎていた。あともう一つ、贄華の持つ性質が感覚を鈍らせているのも間違いない。だが最大の要因は、クエスチョンマークを浮かべつつ見上げてきているこの黒猫だ。
「燐の方こそわかっていないのよ。ケモノを怪物というのなら、あなたこそ得体の知れない妖怪でしょう。本当に怖いのはどちらの方かしらね」
『……今のあたしは、ただの猫だよ。か弱くていたいけな、超絶可愛いだけの黒猫なの』
「ほら、全然わかってない」
『わかってないのは深紅だもん』
黒猫も不満げにそっぽを向く。
『ねえ、そろそろ時間みたい。ケモノが来るよ』
予定時刻、22時55分。黒猫の情報によると、今回のケモノはこの市民公園周辺に出没するらしい。特にこの市民体育館裏の小道は必ず通りかかるとのこと。そしてこの時間帯、近辺は人通りも絶える。
『覚えておいて、贄華のスイッチは深紅の気持ちが入れるんだよ。ここから先は全部深紅次第だからね』
「うん……わかってる。自信ないけど」
『アレはちゃんと持ってきた?』
「ええと……大丈夫、みたい」
胸元を確認すると、首から提げた革袋の感触が小さく、そこにあった。仄かに熱を帯びているそれを、
『ふーん、不安なんだ。ついて行ってナビゲートしてあげよっか』
図星ではある。しかし猫に付き添いを頼んでいる絵面は、ちょっと情けない気もする。
「ええと。まあ、その」
『もう、ハジメテじゃない癖に。そういう初心な感じ、嫌いじゃないけど』
「うう……簡単に慣れたりしないでしょう、こんなの」
そんな深紅の顔を覗いて、黒猫はくくっと笑う。
『いいよ。一緒に行こ……ん、もう来たみたい』
駅の方向から足音が聞こえてきた。深紅は意を決して植え込みを抜け出し歩道に出る。ととっと、黒猫が先に立って暗い道の奥へと歩き始めた。深紅もその後を追う。
『結構近くまで来ているみたい。近すぎるかも。もう少し距離をとって、相手の状況を見たいわね』
まずは足を速めて、体育館の裏手へと向かう。
「念のため聞くけど、人違いってことはないよね。偶々通りかかった別の人が近づいてきているだけだとか」
『もう、あたしのこと信用できないの。間違いないって……たぶん』
「あれ、今たぶんって言った?」
信じて良いのだろうか。
『うるさいなあ、良いからちゃんとついてきてよ』
「うん……」
黙々と先を急ぐ。
「ねえ、気のせいかな。近づいてきていない?」
背後からの足音は遠のくどころか、その輪郭を徐々にはっきりとさせてきていた。コツコツと軽やかな拍を刻みつつ、怜悧な音像を響かせる。歩道にもいくつかの分岐があるのに、ぴったり同じルートをなぞってきていた。
「追いかけられてるのかな」
『おかしい。こっちには気付かれてないと思うけど。うーん、偶々にしては変かなあ。仕方ない、深紅も気になってるみたいだし、あたしちょっと見てくる』
ててっ。黒猫は踵を返すと、後方へと駆けだした。
『深紅はそのまま先に行っててー』
「え?ええ……」
やはり人違いに自信がなかったのではないか。
夜道にひとり取り残されてしまったが、ぐずぐずしていたらケモノに追いつかれてしまうから先に進むしかない。深紅は止まりそうになる足を無理にでも暗い歩道の奥へと運ぶ。
どうせすぐに、あっという間に黒猫は戻ってくるはずだから。
そう思っていたのだが。
いつまでたっても帰ってこない。自分が焦っているだけかとも考えて、十数え、二十数え、三十数えてみた。ただ後ろにいる人物の顔を確認してくるだけなのに、何があったのだろう。こうなると気配をかき消してしまう猫の肉球が恨めしい。
黒猫のことばかり気にしていたら、いつの間にか後方から接近していた足音まで途絶えていた。
黒猫もケモノも、居なくなった……のだろうか。
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