第17話 黒猫の誘い1


 頭の芯が、じんじんと痺れていた。


 くらり、深紅シンクの視界が揺れる。足下が覚束ない。千鳥足というのだろうか、意思に反して勝手なステップを踏もうとする。


「濃すぎるのよ……リンのは」


 口元を押さえつつ、膝に手をつく。


『あら、物足りない?もうおかわり要求なんて、欲しがりだもんね深紅って』


「違っ……」


 睨みつけてやろうと顔を上げたら、黒猫は深紅の足下からするりと姿を現した。赤と青、左右の色が違うその特徴的な瞳でたっぷりと、深紅のことをすくい上げるように見上げてくる。

 不意を突かれて深紅の安定しない足首がよろけた。


「あなた、また姿を……」


 押し戻すように黒猫は背中を擦りつけてきた。


『おっとっと、酔っちゃった?美味しすぎたのかしら。ほら、しっかりしないと。今夜はここからが本番でしょう』


 ふくらはぎのあたりに柔らかな毛並みを感じながら、ぼやけた頭を振って脳内の霞を払った。うわずる息をどうにか整える。夜の公園にそよぐ風が、ひんやりとほてった頬をなぶる。


「美味しいわけ、ない、でしょ」


『ふうん。あんなに自分から啜り込んでおいて、ねえ。素直じゃないなあ。まあそういうことにしておいてあげても良いけど』


 くくくっと、見透かしたように黒猫は喉で笑う。


「そんなの、っ……」


 言い返したいのに、言い返しきれない。耳までが熱い。


 今夜も贄華ニエハナを強引に流し込まれた。吐き出したりしないように口を塞がれた状態で、いつも通りに無理矢理押し込まれ、のみ込まされた。とろみのあるぬるい液体と弾力のある欠片が喉を滑り落ち、胃へと到達する。途端、おなかの奥底から火が点いたように熱が広がる。熱と共につま先から頭の天辺へと痺れの波が駆け上り、意識はふわりと押し上げられると沸き立つ泡にのみ込まれ、跳ばされる。


 逆らいようもなく頭の中まで粉々にされる感覚は、日々繰り返されるほどに深紅に馴染み始めていた。少し前まで知らなかったはずなのに、今では体の隅々まで根を張り巡らせている。


 そしてたちの悪いことに、どうやらその順応具合までこの黒猫に把握されているらしい。


 睨みつけている深紅のことなど気にも留めず、黒猫は澄まし顔で満足げに顔を洗っている。食べさせられているのはこちらの方であるはずなのに、どうも納得がいかない。


 漸く落ち着いてきた動悸に、深紅はほう、と溜め息をつく。

 首を巡らせ街灯を見上げる。


「何も、こんな外でしなくても良いでしょう。公園の、繁みの中なんてもう、まるで……」


『まるで、何かしら』

 にまりと、笑ってみせる。猫のくせに。


「……何でもない」


『誰かに見られちゃうかもって、ドキドキしちゃった?そんなことあり得ないのに。ふふっ、深紅もけっこうヘンタイだよね』


「な……何言ってんのよ。夜中にあんな格好でうろうろしていたコに言われたくない」


『あれれ?そっちこそ何言ってるのかしら。あたしはご覧の通りただの猫ですよう。……どうせ深紅にしか見られやしないんだし、今更気にしても仕方ないもん』


「少しは恥じらいというものをね……風邪引くぞ」


『風邪なんて、引きたくたってもう引けやしないんだから。寒くても、ただ寒いだけだもん。今はほら、自前の毛皮もあるし』


「あんなの、見ているこっちが寒いんだって」


『あれ、そんなこと言って、深紅ってばあたしのこと心配してくれているのかしら……くくっ』


 悪戯っぽく笑ったところで、俄に黒猫の声のトーンが沈む。


『でも。いい加減、理解はしておいてよね』


 黒猫は音もなく深紅の肩に飛び乗ると、左右異色の瞳で至近距離から深紅の目を覗き込んできた。殆ど体重というものが感じられず、改めてこの黒猫がこの世の在り来たりとは一線を画したモノなのだと思い知る。暗くて深い夜の瞳孔はくっきりと丸く開かれ、病院で嫌と言うほど見てきた冷たい闇の色を思い出させた。


『今のあたしのこの姿は誰の所為?全部、深紅が悪いんでしょう。だから深紅が責任をとるのは自然なこと。これは深紅の償いなの』


 目を逸らそうとしても、射止められたように固まっていた。ピンで留められて標本の蝶になった気分。逃がしてなんかあげない、そう宣言されている。


『今夜も、素敵な華を咲かせてもらうわ。深紅があたしの代わりに贄華になるのよ』


 深紅に理解できているのは、黒猫の言葉はすべてのみ込むしかないのだということ。抗いようもないことなのだということだけ。だから黙ったまま僅かに頷くことしか出来なかった。


『よく出来ました。いつもこのくらいに素直だと、可愛げもあるのにね』


 ふっとまなざしの束縛が緩められる。固定するピンが抜かれて深紅は自分を取り戻すと、躊躇する気持ちを抑え込み、溜め込んでいた問いを返した。


「じゃあ……そろそろ教えてくれてもいいでしょ。私が生きていられるのは燐のおかげだってことぐらい、わかってる。嫌になるくらい実感もある。でも、私が何をしたら燐が猫になっちゃうのよ?そんな呪いの魔法みたいなこと私に出来るはずがない」


 今度は深紅が黒猫の目をきっちり捉えていた。しかし黒猫はその視線を軽く受け流し、するりと肩の上から降りて深紅に背中を向けた。


『そこなのよね』


「え?」


『そういうところがいけないんだから。深紅は全然わかってない。何で覚えてないのかな。あんな非道いこと、あり得ないことまでしてあたしを滅茶苦茶に壊しておいて、自分は何も知りませんって、清廉潔白でございますなんて澄ました顔をしてみせてさ』


「だって、ホントに心当たりなんてないし……」


 黒猫は振り向き、赤と青、二つの燃える眼で睨みつけてきた。


『許せないんだから、もう。これはあたしから深紅に与える罰。深紅は贖罪のために生かされているのよ。あたしが深紅を最高の贄華にして、見事に咲かせてみせる。覚悟してよね』


 夜に浮かぶ一揃いの小さな焔は、深紅を焼き尽くそうとしてくる。だが、どうしたってそんな罪状など知りはしないのだ。理解もできず形だけ俯くしかない深紅の姿に、黒猫は持て余した苛立ちを滲ませながら夜空を仰ぐ。


『……もうすぐ、ケモノが来る時間よ。どうかしら、今夜の華の仕上がり具合は』

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