第16話 錯誤する研究室3


 我々は誰のために、何をしているのだろう。


 じわり。今自分の立っている床が消滅していくかのような不安に見舞われる。そんな幻影に襲われていた香雨コウへ、霧紫ムラサキが告げた。


「惑わされるな香雨。私達が対処しなければならないのは噂話ではなく、現実に被害者が出ている犯罪だ。異物であろうとなかろうと、これ以上の犠牲者を出さないため犯行を終わらせることが我々の責務だ」


 凜とした言葉に、揺らいでいた香雨の足下が定まる。ああ、やはりこの人は頼もしい、と再認識させられる。


 パタ、パタ……と生気の無い拍手が聞こえた。学者が義手に生身の手を打ち付けていた。


「その通り。音羽君はいつも正しいね。そして君たちに出来ることは……それしかないんだ」


 背もたれにゆったりと身を預ける。車椅子の向きを変え、学者は捜査員たちに背を向けた。


「愚にも付かない話ばかりして、足止めしてしまったね。せめてひとつ忠告をしておこう。……このまま従来通りの捜査をいくら続けたところで、事件の解決に結びつくことは無いだろう。しかし君たちは効果がなくても、対症療法を続けてみせるしかない。鋭意努力はしているのだとアピールすることで市民の不安を抑制する、実質デモンストレーションにしかならないだろうがね。……だからこそ、ではないかな。今回の事件が君たち遊機警CRPに丸投げされているのは」


 遊撃機動警備サービス。行政のスリム化をかけ声に導入された治安部門への民間企業の参入だ。経費の削減と透明性の向上を謳ってはいるが、実情は警察当局に都合の良い便利屋だ。公的機関としては扱いにくい汚れ仕事などを押しつけるのに適した存在となっている。結果、責任をとらされては取りつぶされ、新たな企業として再生するロンダリングを繰り返しているため小規模事業者が多い。その中でも霧紫と香雨が所属しているCRPは比較的息の長い、業界内の準大手となっていた。


「気をつけたまえ。君たちは生贄の羊……スケープゴートだよ。当局はこの膠着状況に気付いた上で、不満のはけ口としてCRPを利用するつもりだ。そして君たちには、その役割を全うすることしか出来ない」


 真っ直ぐに伸びた霧紫の背中が、応じる。


「ならば、検挙して見せるだけです。おっしゃるとおり、困難でも我々はそうするしかない。そのためにも、先生には有益な助言を期待しています」


「僕に出来ることがあるなら、協力は惜しまないよ。だから……今後も引き続き、事件に関する情報は逐一提供してもらいたい。僕も研究者としてデータを活用していきたいからね。是非これからも、君たちCRPとは良い付き合いを続けていきたいものだ」


 ゆったりと満足げに、学者は天井を仰いだ。


 そんな様を目の端で確認し、ドアノブに手を掛けたままで霧紫は言った。


「ええ、そうですよね。勿論です。先生……ああ、そう言えば最近、私もひとつ気になる噂を耳にしました」

 今までとは打って変わり、もの柔らかな口調だ。むしろとぼけているとさえ形容できそうなくらいに。


「ふむ、音羽君が噂話に興味を持つとは珍しい。それは何かな」


「先生のところへ中学生くらいの少女が頻繁に出入りしているとか。私からも忠告しますが、世間というものはこちらが思っている以上に品の無い想像を好むものです。先生ももう少し、人の目を気にされた方が良いのでは無いですか」


 香雨が振り向くと、学者の苦々しく歪められた表情がちらりと見えた。今度のものは笑っているわけでは無いようだ。


「ああ……あれはむしろ、彼の方から自主的に通っているものだ。音羽君も知っているだろう、響峯邸の事件で唯一遺された、あの少年だよ」


「ええ、やはりそうでしたか。エン君、でしたよね。しかし少女の身なりをさせているのは如何なものでしょう」


「まさか、先生……」

 香雨も過去の捜査で見かけたことのある少年だった。まだ躰の線が細く、確かに少女と言われれば納得してしまいそうな愛らしさだったけれど……。いけないとは思いつつ香雨の脳裏で妙な妄想が膨らみかけてしまい、慌ててかき消す。


「変な嫌疑を掛けるのは止めて欲しいな。それについても彼自身が自主的に行っていることだ。彼に双子の、女子のきょうだいがいたことは君も知っているだろう。そこにどんな理由があれ、周囲がとやかく干渉して良いものでは無いはずだ」


「なるほど。しかし中学生にしては、かなり特殊な、手の込んだ衣装まで身につけているようですね。そして何のために先生の元へ足繁く通っているのでしょう」


「それは……ほら、僕がこんな有様だろう。見かねた彼が身の回りの生活サポートをしに来てくれているんだ。食事とか洗濯とか掃除だとか、まあ同情されているんだろうね。その辺りの雑事はオートメーションで処理しているから不要だと、伝えてはいるんだが。仕方ないからせめてもの見返りに、僕は家庭教師のまねごとをしている。何を教えても、彼は実に吸収が良い。優秀だよ」


「すると、衣装を与えているのも見返りの一環と言うことですか。しかし……メイド服はやり過ぎではありませんかね」


 霧紫は追及の手を緩めない。学者は暫し返答に詰まる。


「むむ……それは何というか、彼なりの正装なのであってだね。失礼があってはいけないから、自らが調度品となって引き立て役に徹するために必要なのだから……」


「何をおっしゃっているのですか?それは誰に対する失礼なのでしょうね。……まあ良いでしょう。今日のところははこの辺でお暇しておくとします。続きはまたいずれ聞かせていただきましょう。さあ香雨君、帰るとしよう」


「は……はい、主任っ。では先生、失礼します」


 研究室を出て扉を閉ざそうとする香雨の耳に、学者の呟きが漏れ聞こえてきた。


「相変わらず怖いね、音羽君は……」


 ……ですよね。内心相づちを打ちながら、香雨は通路を先に行く上司の背中を追いかけた。


「結局、事件の手がかりとなるような話は伺えなかったですね」


「ああ、先生も回りくどい口ぶりは変わらないのだよな。振り回されないように気をつけた方が良い」


「……あの、主任と先生は旧知の間柄と聞きました」


「うん。学生時代の同窓だよ」


 カイと霧紫、この二人はハイスクールで共に生徒会へ属し、直接の先輩後輩の関係にあったらしい。そのこともあって、CRP内でも戒との窓口は霧紫に一任されるようになっていた。


空藤クドウ准教授は、以前からあのようなお人柄なのですか。実は自分は少々苦手で……何となく、お話を聞いていて不安にさせられます。薄気味が悪いと言いますか」


「あれは虚仮威しだよ、気にする必要は無い。そういったところも昔と変わりはしないな。事故で肉体は大きくダメージを受けてしまったが、人格はそのままだよ」


「そうなのですか?あれで……」

 香雨には、俄に信じがたい。


「それよりも、当局に関する指摘が気になる。当初は徘徊する肉食獣の捕獲程度で済むだろうと考えていただけかもしれないが、これほどまで被害が拡大した現状でもCRPに一任したままというのは、確かに違和感がある。まあこちらとしても、これだけの大きなヤマは好機に他ならないからね。スケープゴートか……受けて立つしか無いだろう」


「はい。主任」


 怯むということがないのだ、この人は。


 颯爽と前を行く霧紫の背中は香雨とそう変わらない、細くしなやかな女性のものだ。若くしてCRPに所属し、人一倍の経験と実績を積み重ねてきてはいるが、年齢も香雨とほぼ一緒だ。それが何故、こんなにも眩しく、頼もしく見えるのだろうか。


 何故、この人はこんなにもまっすぐ立っていられるのだろう。


「あの、主任はどうしてこの仕事を選んだのですか」


「うん?守りたい人がいるからかな」


 てらい無く、シンプルに言ってのける。

 やはりこの人は格好良い。ずるいなあ……敵わない。


「妹さん、ですよね。たまには早く帰って、顔を見せてあげてください」


 この人にこれほど大切にされているなんて、幸せ者も良いところだ。

 ……羨ましい。小さく嫉妬が疼く。


「香雨君は気にしなくて良いよ。仕事は仕事」


「良いですから、たまには私の言うことも聞いてください。今日の報告書は私がでっち上げて提出しておきます」


「でっち上げって、そういう訳にはいかないでしょう」


「良いんですっ」


 ちくちくと、小さな針が香雨の中で芽生えて、藻掻いている。


 むずがゆくて、仕方が無かった。

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