第15話 錯誤する研究室2


 硬い表情で、霧紫ムラサキは口を閉ざしている。


「そんな……」


 無力感に、香雨コウも言葉を失う。研究室が重い沈黙に支配される。


 ひゅうう。隙間風のような音が学者の喉から漏れ出した。

 車椅子の上で体をふたつに折り曲げ、ぶるぶると震えている。どうやら笑っているらしい。 


「などと散々人ごとのようにあげつらっているが……まあ、肝心の病原を解明できていない時点で、この無能な研究者も君たちと同罪な訳だが」

 ひゅひゅ、ひゅうう。

 これは果たして自虐なのだろうか。香雨の背筋に冷たい汗が伝う。


「では、この蔓延する事件にどう対抗すれば良いのですか」


 耳障りな隙間風を断ち切って、霧紫が問いかけた。

 学者の笑いはぴたりと止まり、何事もなかったように話を続ける。


「治癒における投薬の役割は補助的なものだ。人体が最終的に病を克服するのは免疫機構の働きに他ならない。それは生命本来の生きようとする意思、或いは力そのものと言って良い。そして僕は、このニンゲンという群体性生物には古くからそういった機能が備わっているのではないかと考えている。個々の人格がコミュニケーションによって接続することで総体としての人間社会が形成されている訳だが、そこに何らかの障害が生じ患部が形成されたとき、排除し修正を行う機能が存在する。目に見えず普段意識されることもないが、そんな免疫の機能を備えた器官が、生活する人々の間のどこかに埋め込まれているに違いない」


 あり得るのだろうか。人知れず、社会のどこかに存在する免疫器官が、ニンゲンを脅かす犯罪を処理している……などと学者は言う。香雨は小さく手を上げ、おそるおそる問いかける。


「あの、我々治安組織では、その免疫とはなり得ないのですか」


「人類の歴史から見れば、君たちなどつい最近になって追加された、所詮後付けの装置に過ぎないよ。免疫機構はもっとプリミティブな存在だ。ニンゲンの、より深い部分に根ざしたものであるはずだよ。それだけ人類にとって不可欠な器官といえる」


 霧紫が懐疑を挟む。


「そんな都合の良いものが、我々を差し置いてこの世界に存在しているのですか?しかも誰にもその働きを悟られていないと言うことですよね」


「免疫など、正常に機能している限り意識されないものだろう。不調が感じられるのならば、むしろ免疫の低下が疑われる。そろそろ理解したまえ……つまりは、そういうことなのだよ」


 学者は顔を上げ、サングラスの下の眼差しが正面から二人の捜査官を捉えていた。思わず香雨は、半歩後ずさる。


 学者が告げる。


「現在、この免疫システムが毀れている」


「毀れている?それは」

 霧紫は一歩前に踏み出す。


 学者は続ける。

「それ故に、こんな病が蔓延する事態を招いている。従来ではあり得ない、君たち治安機構では対処不能な状況が引き起こされてしまった。本来なら今回のようなケースも、犯罪として表出する前に免疫器官によって人知れず治癒されていたものだろう。つまり、現在我々が直面している事件は、免疫システムの崩壊により暴露されたものだ」


「……ならば。今必要とされるのは、我々の捜査などよりも、そのシステムの修復なのでしょうね」

 霧紫の口調は、冷ややかだった。納得はしていない。出来るはずも無い。

 香雨は上司に蓄積されつつある感情に気付いて、緊張する。


「それが可能ならば、そうするべきだろうね。しかし僕もまだ、免疫器官そのものには手を出せないでいる。その実相に近づけてはいるはずなのだが、残念ながらあと一歩だ。もう少しで届きそうなのだが……」


「そこにあるとわかっているのに、実態はつかめていない。だから干渉することも出来ないでいる。そうなのですね」

 霧紫の言葉は、さらに冷たく研ぎ澄まされた。

 臨界は近い、香雨は覚悟する。


「うん、その通り。流石は音羽君、理解が早い」

 あっけらかんと、学者は答える。悪びれることもない。


「なるほど……」

 ふっ、と霧紫は息をつく。

「結構なご高説でした。実に雲を掴むようです。あまりに荒唐無稽で、漠然としている。この世界で誰にも見えていない、先生だけが気付いてしまった真実なのですね。しかも結局、我々に出来ることは何もないとのこと。誠に残念です」

 鋭利な凶器となって、辛辣な言葉が放たれていた。


 霧紫は学者に背を向ける。


「時間の無駄だったようです。香雨君、そろそろお暇するとしよう。空藤先生、次回はもう少し有益なお話を期待しています」


 香雨には怖くて霧紫の顔が見られない。


 ひゅひひっ、ひゅうう。

 隙間風に枯れ木が哭いた。学者が激しく哄笑している。肘掛けにしがみつきながら、欠損の目立つ体を大きく波打たせている。ひゅうううう。嗄れた喉から放たれる耳障りな音が研究室中に響き渡り、香雨は耳を塞いでその場に蹲りたくなる。


「そうだろう。そうだよなあ。俄に信じるなど、到底無理がある。この世界、我々自身のことさえ、我々には理解できていないことだらけだ。これが現状、人類の限界なのだろう。実際、人の成し得るところなどたかがしれているのではないかね」


 ひとしきり笑い尽くすと、学者は大きく肩で息を吐きながら顔を上げた。


「……君たちも本当は気付いているんだろう?そこに明白に見えていながら、懸命に目を逸らしている。積み重ねてきた常識に阻まれて、受け入れることが出来ないでいる。音羽君、君だってそうだ」


 部屋を出ようとしていた霧紫の足が、止まる。

「まだ何か、言うことが?」


 学者は続ける。

「今回の事件、人の及ばない何かが、そこにいるのではないか。そう思ったことは無いかね」


「人ではない……と?何を言っているのですか。まさか先生は最近流布している噂のことを、」


 そこで霧紫は口籠もる。後を引き継いで、香雨はその単語を口にしていた。


「まさか、あの、ケモノ……ですか」


 捜査員の間ではタブーとされる話題だった。現実の事件に尾ひれが付きすぎて、むしろその尾ひれが主役となっていて、情報としての価値は無い。まともに相手にしていられたものではない。


 サングラスの下で、学者は愉快そうに顔を歪ませる。


「莫迦莫迦しい、そう思っているのだろう?失敬、これでも巫山戯ているつもりはないんだ。この手の猟奇性の高い事件には、まるで実体験のように語られる都市伝説がつきものだ。しかも今回のものはかなりの勢いで人口に膾炙し、広がりを見せている。僕の専門分野から言わせてもらうと、都市伝説のような民間口伝も、軽視できない内容を孕んでいるものだよ」


 溜め息交じりに、霧紫は言う。

「私も多少は耳にしていますが、あまりにも現実離れが酷い」


「語りである以上、伝達の過程で情報がエンターテイメントとして加工されてしまうのは避けられないからね。すべての内容をそのまま事実として受け取る必要はない。バリエーションも多様になるものだから、問題はそこに通底している要素をどのように掬い取るのか、だろう」


「しかし、人に化けて人を喰らう怪物だなんて」

 霧紫は眉をひそめる。


「あり得ない……ですよね」

 そう言いながらも香雨は、内心では否定しきれないでいた。凄惨な現場を幾つも見ているからこそ、思ってしまうのだ。そんな怪物がいてくれれば、むしろ簡単に説明が付いてくれるのに。


「そこだよ音羽君。噂の中心にあるのは、ケモノと呼ばれるモンスターだ。人の姿をとりながら、決して人ではない。一見人そのものでありながら、人であることを絶対的に拒まれている存在だ」


「人のようでありながら、人ではない……」

 香雨はなぞるように呟く。

 そうだ、だからこそあんな非道な振る舞いが出来るのだろう。


「それはつまり、我々の中に紛れ込んだ異物だ。噂の内容はその異物を恐怖の対象として際立たせ、さらに最近では退治してしまうことで排斥する方向へとシフトしている。そこにあるのはニンゲンにとっての脅威を撲滅しようとする感覚の共鳴だ。どうだろう、こうしてみれば噂と呼ばれる社会現象も、総体意識上で機能する免疫器官の一種かもしれないだろう?」


「異物としてのケモノ。それを取り除こうとして語られる噂……免疫器官。……でしたら先生、私達治安機関が果たす役割とは何なのでしょうか」


 飛び交う噂の中でケモノの排除を担うのは、決まって退治屋と呼ばれる謎めいた人物とされていた。香雨のような捜査官など、語られていたためしがない。治安機関など人々にとっては不要な存在だと、求められていないと言うことなのだろうか。


 我々は誰のために、何をしているのだろう。


 じわり。香雨は今、自分の立っている床が消滅していくかのような不安に見舞われていた。

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