第13話 空っぽの放課後2


「ただいま」


 開かれた玄関の扉の内側。深紅シンクの声が暗い屋内へと吸い込まれていく。


 ささやかな戸建ても人の気配がないとやけに広く感じられた。少し年の離れた姉とふたりだけの暮らしだが、まだ勤めから帰ってきている様子はない。


「ま、知ってたけど」


 もう数日は顔も見ていない。最低限の連絡は取り合っているものの、あまり多弁なタイプではない姉だから日々のメールも簡素なものになりがちだった。「今日も帰れそうにない。ごめんなさい」ぶっきらぼうなくらいの、代わり映えのしない単文と添えられたひと言。実に姉らしいと思いつつ、「了解。無理はしないで」深紅の返信も自然、シンプルなものとなる。


 ここのところ業務が立て込んでいるらしく、職場に泊まり込みの日が多くなっていた。仕事は特殊な警備関係で、警察の業務にも一部関わっていると聞いていたが、家族にも詳細は明かせない類いのものらしい。両親を亡くしてからは、どういう伝手を使ったものか早々に今の職を見つけだし、ひとりで家計を支えてくれている。だが身内としては、どうにも不穏なこの就職先の実態が気になる。


 文武両道かつ色々とハイスペックな、幼い頃から自慢の姉だった。学生時代にはとかく別格扱いされがちだったらしい。しかしその能力を活用して、何らかの危険な職務に就いているのではないかと心配になる。そしておそらく、姉妹ふたり経済的に何一つ不自由ない生活が送れているのはそのおかげなのだろうと想像はついていた。


 病気だった妹は暮らしの助けになるどころか、入院と治療を繰り返したために両親の遺産もかなり費やすこととなってしまった。姉には大変な苦労をかけてきているし、退院した今でも生活の基盤は頼りっきりとなっている。どうしたって返しきれないほどの恩があり、深紅としては姉のためにできることがあれば何でもしたいと思っていた。


 だが。肝心の姉が、深紅は元気でいてくれればそれでいい、などと言う。早世してしまった両親、家族として唯一残された妹は死病を患う、これだけの境遇にあれば恨み言のひとつも零して当然なのに、むしろ一切のてらいなく、深紅を見ればそれだけで嬉しそうな顔をしている。何も余計な心配なんてしなくて良いから、などと言って退院してきた妹に家事さえ分担させたがらない。さすがに過保護が過ぎてこっちの方がやりづらいと文句をつけたら、でも、とかだって、とか口ごもりながらも散々ごねた末に、漸くどうにか認めてくれた。結局のところ、妹のお願いには逆らえないということになるのだろうか。


 病魔に蝕まれたポンコツな肉体しか持たない妹としては、姉がむやみに有能すぎるのも問題だった。仕事も家事も完璧にこなされると立つ瀬がない。たとえ望まれているとしても、無能なパラサイトに徹するというのは、やはり辛い。


 だから、せめて。


 せめて、そんな姉のためにも、深紅は命を落とさないで良かったのだと思うことにしている。ふたりきりの家族なのだから、これ以上どちらが欠けてもひとりになってしまう。


 ただ生きて、ただこうして日々を過ごせるこの状況を、取りあえずは感謝するべきなのだろう。


 感謝……それは誰に対してか。神様?医療の進歩?それとも。


 ・・・にゃあぁ・・・


 どこか遠く、猫の鳴き声を聞いたような気がした。


 そんなの聞こえていないと自分に言い聞かせ、ニット帽を引っ張り耳に被せる。


 夕暮れの空気は家の中まで染みこんで、廊下を冷やしていた。今日のように帰宅時間が遅くなったことなど姉が知れば余計な心配をさせるだけだから、もちろんわざわざ報告なんてしない。いつまでも仕事ばかりしている姉にはわかるはずもない。


 廊下で足を止め、明かりの消えたままのリビングに向かって小声で呟いた。


「ごめんね、霧紫ムラサキ。……でも」


 どうせそこに姉はいない。そう分かっていたから。


「私だって、何のために空っぽの家に帰ってくれば良いのかな」


 直接問いかけるなんて、絶対できない言葉。姉が自分のためにどれだけのことをしてくれているのか、理解できないほど子供ではないつもりだ。


 それでも。いや、だからこそ。

 言いたいことと、言えないことがある。


「どうせわからないものね。霧紫に見えていないところで、私がどうなっているのかなんて」


 近しい存在だと思っていたはずなのに、距離が感じられることが増えていた。自分の知らない、家の外での姉の姿。或いは、姉の知らないうちに、変わってしまう自分のカタチ。


 吐き出してしまった言葉をリビングに置き去りにして、さっさと階段を上りそのまま自分の部屋に直行した。


 そっとドアを開けると、中を窺う。

 ほのかに金木犀が薫った。床にオレンジの小さな花弁がひとつ、落ちている。


リン、いるの?」


 気配はない。


「やっぱり空耳だったんだ……」


 鳴き声なんてするはずがない。夜に備えて、先に市民公園に行っているのだろう。


 あの黒猫もいないということは、本当にこの家の中でひとりきりだ。


 鞄を机に置くと、そのまま崩れるようにベッドへ体を投げ出した。制服が皺になる、と一瞬だけ気になったが、すぐにどうでも良くなった。


 天井がやけに高く、遠くに見える。


「空っぽ、なんだってさ。私も」

 行き場のないひとり言が、空中に消える。


 そう言えば夕食もまだだった。寄り道したカフェでも飲み物以外口にしていなかったが、空腹は感じていない。


 どうもこのところだんだんと、食欲が失われているような気がする。料理を目の前にしても食べたいという意欲がしぼんでしまっていて、食事が口の中に栄養物を押し込む作業となりつつある。気が向かないものだから、時には面倒くさくなって食事をすっぽかしてしまうこともあった。しかしそれで体調に変化を引き起こすことがなかったので、最近ではその回数も増えてきていた。


 原因は、想像ついている。余計なものを口にしている所為だ。


 贄華。黒猫はそれをニエハナと呼ぶ。


 満たしてあげる、そう黒猫は言っていた。

 いらないお世話よ、そう深紅は言ってやりたい。


 だが、もう受け入れてしまっていた。今更、取り返しがつかない程度には。


 最初は、無理矢理流し込まれたのだ。こちらの意識がないのを良いことに好き勝手にされた。後日、黒猫自身がくくくっと喉奥で笑いながら、得意げにそう語ってみせた。


 そして。


 素直に認めたくなんてないが、今、深紅が生きてここにいられるのはその結果だ。

 したくないけど、感謝はするべきなのだろう。


 だから、あの黒猫を受け入れるしかないのだと、自分に言い聞かせている。

 どれだけワガママでも意地が悪くても、我慢してみせるしかないのだと……。


 退院して、暗くて深い穴の縁からこちらの世界に戻ってきて以来、深紅の中に生じ始めた空洞。止めようもなく拡大していく空っぽに、黒猫はすっぽりと滑り込んできていた。いろいろな要素がそぎ落とされて隙間だらけだった深紅の日常に、当然のような顔をして侵入してくると、そのまま居座ってしまった。実際このところでは、姉にも内緒で深紅の部屋のクローゼットに寝泊まりしている。


 きっと、その所為に違いない。今も虚ろに冷え切った家の中で、無意識のうちに黒猫の気配を探し求めている深紅がいる。


 それもこれも、仕方のないこと。どうせ不可抗力なのだから。


 ……なのだろうか。


 これでいいの?

 すっかり馴らされちゃって、悔しくはないの?


 さらに自問する。

 これって、つけ込まれているのでは?


 熟々つらつら考え込んでみても何一つとして、まともな答えは出てこなかった。


 ベッドの上、持て余した疑念に搦みとられてひとり身をよじる。


 時計の針は焦らすように、ゆっくりとした動きで運ばれていく。

 約束の時間が、近づいてくる。


 深い夜の奥底で。黒猫が、深紅のことを待っている。

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