第10話 金木犀の囁き2


『もう、さっきからあれもこれもはっきりしないじゃない。曖昧なことばっかり』


「そ。曖昧だらけなの」


 揃えた膝に顔を埋め、片手をまっすぐ前に伸ばす。広げた指の隙間を透かして、ずっと向こうに授業を受けている生徒達の姿が見えた。今日のメニューはハンドボールのようで、みんな小ぶりなボールを巡って声を掛け合いながらコートを走り回っている。


「これだけ距離があるのよね、あの子たちと私の間に。ここは校舎の壁際、校庭の隅っこ。つまりここが、今ところ私のポジションってことかな」


『遠いよね。手なんか全然届かないよね。それにみんな元気で楽しそう。なんだかキラキラしちゃってて、眩しいでしょ。それに引き替え深紅ときたら』


「きたら、何?」


『別にぃ。だって如何にも憂鬱ですよ、みたいな顔してるから。嫌だと感じているなら無理して学校なんて通わなくたっていいのに。ねえ、もう帰ろうよ。こんなところでぼんやり座り込んでても良いことないでしょ。ずっと自分の部屋に閉じこもってゴロゴロしていたって、何ひとつ悪くなんてないと思う。あたしも一緒に引きこもってあげるんだから』


「だから今は授業中なんだって。それに私、学校嫌いじゃないよ。クラスメイトも先生も、みんなホントに優しくしてくれる。私こんなになっちゃったから、結構きつい目に合うかもしれないなって覚悟もしていたのに、ちょっと拍子抜けなくらい」


 頭のニット帽に手をやると、外気で冷えてきた耳に被さるよう両サイドを引っ張り下ろす。退院から少したって髪もいくらか伸びては来ているが、まだ帽子ごしに頭の形が浮き出て見えた。


『深紅は優しくしてほしいの?いいよ、お望みならあたしがそうしてあげるもん。今夜にでも、ね。くくっ』


 悪戯っぽい含み笑いに、深紅はさらにニットを目深にずりおろす。


「また口先ばっかり」


『ねえ、深紅は気づいているの?みんなが優しくしてくるのは、深紅がピカピカのコインをくれるからなんだよ。みんなその、よくできました、善い行いをしましたって刻まれたコインをこれ見よがしに飾り付けたくて、深紅のことを哀れんでくれているんだ。誰も教室に突然入り込んできた病み上がりの子のことが大好きで、世話を焼いてくれてる訳じゃない』


「ほら、言ってるそばから優しくないんだ。そうは言うけどさ……私はみんながしていることが普通のことだと思うし、私だって同じ立場ならきっと同じことをする。それでみんなが幸せになれるのなら、何も問題はないでしょう?」


 ああ……もう、と金木犀が揺れる。


『お人好し何だから……と言いたいところだけれど、深紅の場合は違うのよね。他人に興味がないから、他人にどう思われていようと気にならないだけ。そんなところが深紅らしいと言えばそうなんだけど。だけどさ』


「だけど?」


『少しはこっちのことも……なんて言っても無駄よね、うん。いい加減あたしもわかってきた』


「?」


『距離なんて、歩み寄らないなら開いていて当然。ずれているのはどちらの方なのかしら』


 そろえた膝に顎をのせて、深紅は空を仰ぐ。


「うーん、私、ずれているのかな」


『なにせ中身を病院のベッドの上に落っことしてきちゃったらしいものねえ。空っぽのままじゃ学校生活なんて嘘にしかならないのも当然でしょ。今の深紅って、生きてはいるけど死んでるのとあんまり変わらないのよね』


「ええと……私、結局死んでるんだ」


『そうだよ。だから仕方がないの』


 不意に風が凪ぐ。


 ふわり、金木犀が強く薫った。


『仕方がないから、またあたしが深紅の空っぽを満たしてあげる。今夜、贄華ニエハナを咲かせましょう』


 ニエハナ、そう聞こえた。


 ポーンと、ボールが一つ飛んできて深紅の足下に転がった。拾い上げて投げ返そうとすると、押しとどめるように慌てて友莉が駆け寄ってきた。校庭中の視線が深紅の挙動に集中してくるのがわかる。


「大丈夫?音羽さん寒くない?」


 ボールを直接受け取りながら、声をかけてくれる。

 深紅は三枚重ねのジャージを羽織直しながら、

「うん。これのおかげで暖かいよ」


『22時55分。市民公園体育館裏の小道。忘れないで』


 ザザ……風に煽られ、金木犀の茂みが揺れた。


 キョトンとした顔を友莉がするので、

「あれ、何か聞こえた?」

 ととぼけてみせる。


「鳴き声みたいな……そこに何かいるの?」


「もういない。さっきまで猫が一匹うろうろしていたみたいだけど」


「猫かあ。いいなあ」


「そうでもない」


「え?」


 授業に戻っていく友莉と小さく手を振り合って、見送る。

 元通り椅子の上に戻って膝を抱え、ジャージをすっぽり被った。


 金木犀はもう、何も語らなかった。

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