第9話 金木犀の囁き1
何処までも深い、底の見えない真っ暗な穴が大きく口を開けて横たわる。
その縁に指先ひとつ引っ掛けてぶら下がっている状態だった。ほんの少し力が抜
けても、汗で指先が滑っても、たちまち暗闇に呑み下されて自分は消える。
明日にでも、命を落とすことになるのかもしれない。病院のベッドの上で
初めのうちはただただ、恐ろしかった。どうして自分がこんな目に遭っているのか、その不条理に悲しみが溢れ、怒りがわいた。体調に余裕があるときは延々と啜り泣き、人目を忍んで嗚咽を呑み下すため、袖や枕をボロボロになるまでひたすら噛み締め、血の染みを散らした。だがそんな状況にも心は馴染んでしまうのか、それとも単に感情の暴風に疲弊してしまうのか、ひたすら呆然としてしまうような期間もあった。緩やかに、ときに突発的に嵐と凪を繰り返して、ぐずぐずに砕け散った時間感覚の瓦礫の山にベッドの上で
何日経ったのだろう。それとも何週間か、何カ月か。その間に幾度かの手術も受け、身体を切り刻まれていた。そのたびにずしりとした痛みが内側に溜め込まれ、体力というより生命の容量のようなものが削り取られていくのが感じられた。このままいろいろなパーツを切り取られて、どんどん空っぽになって小さくなって最終的にはなくなってしまうのではないか。そんなことを思うと、どうしようもなく不安定な笑いがこみ上げて、挙げ句溢れた涙にむせ込んで泣いた。
波状に押し寄せる発熱と苦痛が次第に勢いを増し、意識を浸食し混濁させる。覚醒を維持できる時間がどんどん短く、とびとびになっていく。紛れもなく自分は壊れていきつつある、死に迫りつつあるという実感。指先はまだ穴の縁にかかっているつもりなのに、足下に満たされている真っ黒な泥はゆるりと水位を上げて深紅を取り込んでしまいつつあった。つま先からふくらはぎへ、ねっとりとした冷たさに包まれていき、脚から腰へ、胸元へ、首から頭のてっぺんへ。無感覚の暗闇に沈み込んで漂う。浅く……深く……もっと深く。何かのはずみでどんよりとした泥炭の底からどうにか浮上し、顔だけ昏い水面からのぞかせた状態で朧げに目を覚ますと、深紅は思う。どうやら今回は、戻ってきたらしい。あと何回、自分はこうして覚めることができるのだろう。
「次」は、あるのだろうか……。
……ガサリ。
金木犀の茂みが背後で揺れる。微風とともに濃厚な花の芳香が流れてきた。
『モーニン。お目覚め?サボりの上にお昼寝なんて、いい御身分ね』
顔を上げると、白く滲んだ陽光の向こうにクラスメイト達が体育の授業を受けている光景が広がっていた。深紅は校庭の片隅で
「サボりじゃない。見学」
投げやり気味に返事を返す。応えるように、金木犀の枝が揺れる。
『浮かない顔してる。夢見でも悪かったのかしら』
「居眠りなんてしてない。授業中だもの。ただ、ちょっと前のこと思い出していただけ」
『ふうん……。何にせよ、昔の話。済んだことよね。今の深紅にはもう関係のないこと、でしょう?』
「関係ない、のかな」
今でも脳裏に染みついたままの、死の感触。無味無臭の熱も持たない何かが、なめらかな泥のように全身を包み込む。こうしていても脚先から這い上ってくる冷気を思い出せた。
ジャージの前を掻き合わせ、抱き寄せた膝の間に頬を押し付ける。
「こうしていると病院にいた頃のことなんて嘘みたい。遠い昔のできごとというか、ちょっと生々しい夢でも見ていた感じ。でも、あの時と今の落差が大きすぎるからなのかな、平穏な今のこの状況の方が嘘っぽく思えてきたりもするし」
退院してからこちら、ずっと違和感がつきまとっていた。サイズの合わない服を無理矢理着ているような感覚。あちこち引っ張ってみてもダブつきがずれるばかりで、どうもしっくりこない。
『物足りなくなっちゃったかな?さすが死病から奇跡の復活を遂げた女子高生は違いますねえ。病室にいたときにはあんなに学校に戻ってきたくて仕方がなかったくせに』
ざわざわと、意地悪げに金木犀が枝を震わせる。しかし深紅の口調は淡々と、微塵も動じる気配はない。
「そう、だったんだけど。どうしたのかな、私あの頃のごちゃごちゃした気持ち、みんな
深紅は浅く、ため息をついた。金木犀の枝はむしろ楽しげに揺れる。
『もしかして学校、つまらなくなっちゃった?』
「うーん。楽しいかなって思えるときもあるけど、それ程でもないってときもある」
『さっきまで、教室であんなに話を弾ませたりしていたくせにさぁ。……オトモダチ、出来たんだ』
「ふふ、見てたんだ。そんなに楽しそうだったかな。気になるの?」
口の端だけで、微かに笑う。
『見てたよ。深紅のこと、見ているんだから。どうなの、オトモダチ』
「どうかな。よくわからない」
『もう、さっきからあれもこれもはっきりしないじゃない。曖昧なことばっかり』
「そ。曖昧だらけなの」
答えにならない答えを返して、揃えた膝に顔を
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