第7話 夜明け前3


 地響きを立てて大鼠の巨体が沈む。その後に立っているものは、誰もいない。


「人形さん……?」


 騒乱から一転しての静寂。


 床に転がる大鼠がもぞもぞ動くと、その下から眼帯人形がはい出してきた。


「ったく、重てえんだって」

 

 腕を一振りして、ナイフに着いた血を払う。ぼろぼろになったゴシックドレスを見下ろし、軽く舌打ちをした。


「また先生にぼやかれるな」


「あんな変質者のいうことなんか、放っときゃいいのさ」

 欠伸まじりに銀猫が応じる。


 突っ伏した鼠の口元が、まだ微かに開いていた。


「ドウ……シテ……僕ガ……コンナノッテ……」


「残念だったな。アンタ自身はとっくに死んでいたんだよ。このひたすら人を喰らうだけのバケモノに、真っ先に喰われてさ」


「ソンナ……」


 ヒィィィィ……。肺に残っていた僅かな空気を押し出し、それきり鼠は沈黙した。


 眼帯人形は振り向くと、カウンターの中のふたりに呼びかけた。


「もう大丈夫だ。危険はない」


 おずおずと、姿を現すAとB。


「死んだ、の?」

「ホイッスルさん……」


「こいつはあの男じゃない。あの男の姿と人格を奪っただけの怪物だ。キミらもケモノの噂は聞いているんだろ」


「……」


 勿論、知ってはいる。でもふたりとも、その問いかけに頷くことはできなかった。


 人食いの怪物は死んだ。そして二人の話を聞いてくれた男はもういない。そんな人物は初めから存在していなかったということになるのだろうか。


 Bの手の傷に気づいて、人形がその形良い唇を咬みしめた。


「悪い、怪我をさせてた。怖い思いもさせてしまった。オレが未熟なせいだ」


「そんな、これは人形さんの所為じゃなくて」


 Bが手を振りながら傷を隠すと、横からヒヒッと銀猫が笑った。


「未熟は今に始まった話じゃなかろい。小僧がカッコつけなさんな」


「えっ」

 ふたりの少女が顔を見合わせる。

「いま小僧って」


 眼帯『少年』は憮然とする。

「煩いな灰被り。だいたい手は出すなと言ったけど、この子たちを守るくらいしてもよかっただろ」


 銀猫はアームチェアの上で悠然と寛ぐ。


「我儘なこった。ウチはご馳走にありつけりゃあそれでいいのよ。獲物が餌をば鱈腹喰って肥え太ってくれりゃあ、その方がいいに決まっとうな。ささ、早ようメシをよこしな」


「卑しいんだよ、この竈猫」


 少年は苦々しげに吐き捨てて、ふたりの方に向き直る。


「すぐにここを出ていく方がいい。コイツの食事なんて見てても気分の良いもんじゃないからな」


 ヒヒッ。愉快そうに銀猫が笑う。


「小娘どもにゃあ、ちと刺激が強すぎるかねえ。ウチのそういうところにぞっこんな男もいるんだがのう」


「ついさっき変質者呼ばわりしていたくせに」


「だからこそ、じゃろう?こんなんに惚れとうなんざ末期でないかい」


 猫は椅子の上で笑い転げている。付き合いきれない、とばかりにため息をつき、少年は戸口の方を親指で示す。


「さあキミたち、出口はそっちだ、間違っても奥の扉は開けるなよ。そっちの部屋には見ない方がいいものしかないから。後は真っすぐにこの地下街を出て、そのまま此処であったことは全部忘れるんだ。いいね」


 AはBの手を取る。だがそのまま、その場を動こうとしない。


「ありがとうございました。あなたがいなかったら、あたしたちもケモノに食べられていたのは間違いないでしょう。その、奥の部屋の子たちのように。でも……わからないことが多すぎる。ケモノのこと、あなたのこと。そこの喋る猫のことだって。やはり、何も教えてはくれないんですよね」


「当たり前だろ。知ってもキミらにとって良いことなんて何もありやしない。何より、オレが面倒くさい」


 Aは暫し眼帯少年のことをにらみ返してから、くるっと踵を返し背を向けた。


「行こう、めぐ」

「う、うん、いーちゃん」


 Bの手を引き、わざと足音を立てながら店の入口に向かう。Bは連れられながら、申し訳なさそうに少年に声を掛けた。


「じゃあね、ありがとう、人形さん」


 扉に手をかけたところで、少年の方が訊いてきた。


「ところで、その『人形さん』ってなんなんだ」


「そんなの……」

 少女たちは怪訝な視線を交わしあって、思わず噴き出した。自分の姿を鏡で見たことがないのだろうか。その程度のことさえ、この人はわかっていない。


「秘密ですよ」


 ささやかな意趣返しとともに、ふたりは扉を押し開けた。


 来たルートを逆にたどり地下街をぬけて地上に出る。未だ暗い、冷え切った空気の遥か高いところで、朝の気配が滲み始めていた。


 ふたりは誰もいない街路を、駅に向かって歩き始めた。



 * * *



 【四つ目のウワサ】


 ねえ知ってる?どうやってケモノが食べる人を見つけるのか。


 ケモノはとっても鼻が利くから、人が心の中に抱え込んでいる気持ちも嗅ぎ分けてしまうんだって。


 いろいろな気持ちの中でも特にケモノが好むのが、人に対する感情。それにも憎しみとか嫉妬とかなんとなく気になるとかいっぱいあるけど、いちばんはやっぱり好意なんだって。


 あなたが欲しい、自分のものにしたいっていう強い気持ち。


 お腹を空かせたケモノも人を強く求めているから、人に執着している気持ちに共鳴して惹き寄せられて来るんだってさ。


 だから誰だって気をつけていなくちゃ駄目なの。キミは大丈夫かな。キミは今、誰のことを想っているのかな。


 キミは気付いていないかもしれないけどさ、あたしだってお腹は空くんだよ。


 ねえ……キミのにおいが、知りたいな。ふふっ。



( 第1章 鼠と人形 了 )

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