第6話 夜明け前2
盛んに鼻をひくつかせ、大鼠が歩み寄る。
「ピイィ。イイ匂イ。旨ソウ」
「だめっ、人形さん食べられちゃう!」
咄嗟にBが飛び出し、カウンターに置かれていたボトルを掴むと大鼠目がけて投げつけた。
「ちょっと、めぐってばっ」
Aが止める隙もなかった。
ボトルは派手に中身をまき散らしながら大鼠の頭に当たり、床に落ちて割れた。何らかのお酒が入っていたようで、ぷんとアルコールの匂いが立ち込める。酒でずぶ濡れの頭をゆっくりと巡らせて、大鼠が家出少女たちの方へ振り向く。
「ひゃっ」
あわててカウンターに逃げ込むB。
しかし大鼠はその場に立ち尽くしたまま、あちこちに鼻先を向けて匂いを嗅ぐ仕草をしている。
「ごめんなさい、いーちゃん。あたしってばつい」
「何してんのもう、また勢いだけで……と思ったけど、正解だったかも」
「えっ正解?そうなの?」
「うん。もっとやっちゃおう。そこの棚に並んでるお酒の瓶、どんどんぶつけてやろう」
「えーっ」
「いいから、ほら」
ふたりは手当たり次第に酒瓶を怪物めがけて投げつけ始めた。
巻き添えを避けて銀猫はアームチェアの上に飛び乗る。
「ふふん、小娘どもの方がよほど考えてるじゃないか」
華々しい音を立てて次々とボトルは砕け散り、たちまち室内にアルコールの蒸気が立ち込める。
「うわあ、お酒臭い。そっか、あのケモノを酔っぱらわせちゃう作戦だね」
「あんな体大きいのにそれは無理でしょ。でもアルコールが揮発して空気中に充満したら、鼻が利かなくなるんじゃないかな」
酒でずぶ濡れの大鼠は嗅覚も奪われたため完全に相手を見失い、当てどなく首を巡らせていた。
「ピイ。ピイィ。何処ヘ。何処ヘ行ッタ……ミンナ何処へ行ッタ」
短い前足で儘ならない鼻を抱え、その場に蹲る。
「ピイィ。イナイ、イナイ。ミンナ、イナクナッタ。嫌ダ。僕ハ置イテ行カレタノカ。嫌ダ。僕ハマタ独リニナルノカ。嫌ダ。独リハ……嫌ダ」
「ホイッスルさん……」
「しいっ、今のうちにあの子を助けてここから逃げ出さないと」
AはBと、人形少女の姿を確認する。カウンターから遠く離れて、壁際に倒れ込んだままだ。
「ピ。ピピ。僕ヲ置イテイカナイデ。僕モ連レテ行ッテヨ……」
ぼそぼそと呟いて頭を抱えたまま、大鼠は動こうとしない。
その近くを避けながら壁に張り付くようにして、ふたりはそろりそろりと慎重に歩を進めていく。
銀色の猫はニヤニヤしたまま、アームチェアの上からこちらを傍観している。猫に何かができるとも思えないが、本当に何もする気がないようだ。
音を立てないよう散乱した瓶の破片の上を越えて、Aは眼帯少女へと目いっぱいに腕を伸ばす。もうちょっと、もう一息……ピンと張った指先が彼女の肩先に触れそうなところで、バランスを崩して砕けたガラスの上に倒れ込みそうになる。咄嗟にBが背後からAを抱き留めて後ろに引き戻したが、勢い余って床に突いた手が破片に触れてしまった。
「つっ!」
手のひらに開いた傷から、血が零れた。
大鼠が顔を上げ、鼻をうごめかせた。
「ピイッ。イイ匂イ……コレハ、美味シイ匂イ」
「流石にこの匂いは逃さないさねえ」
ヒヒッ。薄情な猫が笑った。
目は潰れているはずなのに、的確に、ふたりの少女の方へと剛毛に覆われた鼠の巨体が這いよる。
「やばっ……!」
ふたりは尻餅をついた姿勢のまま、互いをかばい合うようにして後ずさるが、直ぐにずんぐりとした影が迫り、被さってくる。
「ピピピ。見ツケタ。ヤット……ミ・イ・ツ・ケ・タ」
針金のように突き出した髭が震え、フッフッと小刻みな呼気が生臭い風となって吹きかけられる。
「やだ、あっちいけっ」
「こっちに来ないでよ」
ガチ、ガチ、少女たちの顔より大きな前歯が目前で打ち鳴らされる。
「ピィ……。ココニイタンダネ。僕ノ、僕ノ可愛イ子ウサギタチ。コレデモウ、僕ハ独リジャナイ」
「ひぃっ」
ふたりは互いの肩にしがみ付き合い、ひと塊りになる。
「ドウ、モ、ゴチソウサマ。……イタダキマス」
「いやぁああっ!」
大鼠の首が振り上げられる。
「させるかよ」
大鼠の背後、と言うよりは寧ろ上の方から声がした。続いて、とんっ、と軽い衝突音。そして暫しの沈黙。
Aが恐る恐る目を開けて見上げると、大鼠の背の上に
「おや、間に合ったのかい」
薄ら笑う銀猫の呟き。
「ピィ……ピイイイイイイイ!!!!」
廃墟地下街に笛の音の絶叫が轟き渡った。
大鼠の上から眼帯の人形が呼びかけてくる。
「悪いねキミたち。今度こそケリつけるからさ、もうちょっと隠れてて」
AとBは縺れ合うようにして、カウンターの中へと戻る。
「よかった、人形さん無事だった」
「うん、こっちも危なかったけどね」
カウンターの向こうでは大鼠が背中に取りついた人形を振り落とそうともがき暴れていた。
「ドウシテ。ピイイ。ドウシテ。痛イ。痛イヨウ。ドウシテ君タチガ僕ヲ拒ムノ。酷イヨ。君タチニハ僕ガ必要ダヨネ」
「逆だろ。アンタがオレたちを欲しがっていたんじゃないか」
眼帯人形は鼠の背にしがみ付いたままナイフをねじ込んでいく。
「ピィィ。痛イィィヨ。コンナノ、違ウ。違ウウ!」
大鼠は突進して、人形を乗せたまま背中から壁に激突する。人形はぎりぎりで離脱し潰されずには済んだものの、勢いでテーブルに突っ込んだ。
「痛てーな、コノヤロ」
口中でも切ったのか、整った眉根を顰めながら血を吐き捨て、ナイフを構え直す。
その僅かな匂いに反応し、大鼠も鼻をひくつかせながら直ぐに人形の方へ向き直る。
「ソウダ……コノ匂イダ。君ノ匂イダ。君ハ僕ヲ求メテイタハズ。君ガ僕ニ教エテクレタンジャナイカ。僕ガ僕デアルベキナンダッテ。ダカラ。ダカラ僕ハ君ノタメニ」
「フン、何言ってんだ。未練がましいぜ。でもそんな感情も執着もアンタのものじゃない。全部アンタが喰らった人間のものが残っているだけだ。もともとのアンタの中身なんて、その底抜けの食欲くらいなんだよ、ケダモノさん」
ナイフを翳したままドレスの袖を捲ると、人形は陶器質にみえる肌をあらわにした。軽く腰を落とすと空いた手で床に散らばったガラスの破片をひとつ拾い、剥き出しになったなめらかな皮膚の表面に滑らせる。一本の糸のような傷が腕に刻まれ、鮮やかな緋色の体液がみるみる滲み出し、滴り落ちた。
大鼠の巨体が、鼻先を震源にしてぶるりと震えた。
「ほら、かかって来いよ。アンタのお望みの物がここにあるぜ」
「旨ソウ。旨ソウ……旨ソウ!喰イタイ!喰イタイイイ!ピイイイィ!」
全身の剛毛が一斉に逆立ち、倍のサイズに膨れ上がった。床を激しく踏み鳴らすと、猛然と黒いドレス姿目がけてダッシュする。
ナイフを顔前に構え直し、眼帯少女は待ち受ける。
ヒヒッ、銀色の猫が笑った。
「ほうら、やりゃあできるじゃないかい。あんまりウチを待たせるもんじゃないよ」
退避していた少女たちがカウンターの向こうを覗き見ると、地響きを立てて大鼠の巨体が沈み込むところだった。
その後に立っているものは、誰もいない。
「人形さん……?」
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