39 漢詩
春霆震震破雲翳
慈雨霎霎連彩霓
我心如晨風東翔
夕照孤残芳甸際
<読み>
春
慈雨、
我が心は
<現代語訳>
春雷が轟き、厚い雲を晴らす
恵みの雨は小雨となって、色あざやかな虹を連れてくる
心は隼のように疾く軽やかに、東へ翔る
夕陽だけが野と天との境に残される
よく、漢字へのこだわりを話題に上げていただきます。
漢字について私より造詣の深い方はカクヨムのなかにもいらっしゃいますし、私はあくまで「素人にしてはよく知ってる」程度ではあるのですが、、こだわりは間違いなく持っていますね。そのことを指摘されるのは素直にうれしいです。
ではどこからそのこだわりが来るかというと、ひとつは漢文を好んでよく読むから。もう一つは明治時代以前の文章も好きでその漢字づかいに馴染みがあるからなのですが、考えてみれば明治やそれ以前の文人の文章というのは漢籍をたっぷり吸収した上に成り立っているので、けっきょく根を辿ればこちらも漢文に行き着くわけです。
例えば「震える」という字。
空気がびりびり震えたり、地響きとともに家が震えると表すときにはぴったりだと感じます。
ところが、唇が震えるとか、指が震えるとか書くと、違和感をもってしまいます。「震」という字は雷鳴のような大きな震えを指すものだという意識が強いからです。(上の詩の「春霆震震」がまさにその用法)
そこで細かいふるえのときは「唇が顫える」とか、「恐ろしくて慄える」とか書きたくなります。(文章全体の雰囲気に合わないために、ひらがなで済ませることも)
もちろん、「唇が震える」が間違っているわけではありません。人の文章でそう書かれてあっても、変だとは思いません。自分で書くときだけ、あれ?ってなってしまうのです。
こんな例はたくさんあります。
あと、ちょっとしたニュアンスの違いに応じて書き分けるならまだしも、特に違いがあるわけでもないのにわざわざ違う漢字で表すのも、漢詩からの癖です。
この手の癖は、例えば漱石にも見られます。
「余はあながちに
先には「嫌う」と云い、後には「
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