30 自由詩
夜なんか永遠にあけなくっていいと思うのにいつもこの世はままならない。
電気ケトルのあわだつ音、
いっしょにパソコンが朝のあいさつをくれる。
手首に見るふたすじの古疵。これをつけたのいつだっけ。
甘いものおくれ。
なんでもいいから。
テレビが夕方雨だって言ってる。
頭痛と渇きを癒やすにはインスタントのコーヒーにたっぷりミルク。
窓のそとに聞こえるバイクの音。
仔犬の匂いといっしょにカフェオレを吸いこむ。
気怠く進む、日曜の朝。
そんなうれしそうに尻尾ふらないで。
なにもしないでいい一日をどう過ごすか考える。それが今日のノルマ。
壁の時計が鳴る。人形がまわる。みんな笑ってまわる。
ビスケットをひとかけあげる。だから尻尾をふるの止めて。
日曜はきらい。さわやかな朝も。
できそこないのような、つくりかけのような、試作品のような一篇。
なんだこれ?? と思われた方もおられるのでは。
じつは自分でも、うーむ、これなんだろう……と首を傾げつつ、できてしまったものは仕方ないよな、と。
最近、「どう書くか」より、「なにを書いて、なにを書かないか」に興味を向けています。
その試行錯誤のなかで出てきた答えのひとつが、これ。不正解を確信しながら答案を書いて提出するような、頼りなくって不誠実な一品ですが、、詩の出来はともかく、文章修行について語るには恰好の枕になりそうと考え、出すことにしました。
村上春樹の『1Q84』に、「物語のなかに銃が出てきたら、その銃は撃たれなければならない」とあります。(出典はたしかチェーホフだったような)
読んだ当時はまだ物語を書く側ではなかったので、ふうん……ぐらいで通り過ぎたのですが、書く側になってあらためて考えてみると、物語演出上の技法としてはなるほどと感心する一方、描写の教訓としては必ずしも同意できないと思うことも。
(たぶん村上さんもチェーホフも、描写の教訓のつもりで言ったのではないのでしょう)
物語の進行には直接影響を与えない路傍の石のような情景描写が、物語世界を豊かに、詩的にするのだと思います。とはいえ、目にしたり想像したりした情景をなんでもかんでも描写するのはかえって物語世界を害します。ということで、「なにを書いて、なにを書かないか」の取捨選択。
詩、歌、句をつくるのは、選択の眼を養う修行になり得ると思います。
長くなったので、いったんここまで。いずれどこかでまたこんな話をするかもしれません。
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