1章第1話 異世界猟兵、目覚める

 ちゃぽん、という音が響く。


 しずくの音だ。


 ちゃぽん、ちゃぽん、と反響するようにして耳朶を打ち、響き渡る水の音。


 一定間隔で規則正しく落ちる雫の音に意識が揺さぶられ、俺は目覚める。


「……ん……」


 頭が、うまく働かない。


 これはあれだ、寝ぼけている状態だ。


 意識ははっきりしているのに、感覚が追い付いていない感じ。


 頭の奥に、もやもやとしたものがあり、全身の神経もどこかいきわたっていない。


 そんな鈍い感触の中で俺は目を開けた。


「……ここ、は……?」


 真っ黒な場所だった。


 ただし真っ暗な場所ではない。


 いや、なにを言っているんだ、と正直思うが、目の前の光景を表するなら、そうとしか言い表しようがないのだから、仕方がない。


「洞窟、なのか?」


 評するならば、そのような場所。


 真っ黒な岩石に包まれた、ちょっとした集合住宅の一室ほどもある広さの洞窟である。


 視線を周囲に振ると、すぐそばとまでは言わないが、そこそこ近い場所に出入口があり、そこから差し込む太陽の光が薄く洞窟の中を照らしていた。


 その出口とは反対方向に視線を向けると、そこには水たまりができており、どうやら先ほどから響く雫の音は、その水たまりに岩からしみ出した水滴が落ちた音だったらしい。


 そこまで冷静に観察して、その上で俺は首を傾げた。


「なんで俺はこんな場所にいるんだ?」


 おかしい、ついさっきまで俺は魔獣と戦っていたはずだ。


 帝国の辺境部で溢れだし、人里を襲った魔獣どもを撃退するため俺も猟兵として出動した。


 その際に寝床としていたのは、軍が野営地に臨時で敷設した天幕で、主に戦場となった場所もほとんど市街地の中だったはず。


 少なくとも、こんなどことも知れない洞窟が近くにあるような場所で眠った記憶がない。


「どういうこっちゃ……?」


 首をかしげてそんな風に呟いてみるも、しかし誰の返事も帰ってこない。


「………」


 仕方ないので、一度目を閉じ、ゆるく深呼吸を数回した。


 コツは肺に空気を貯めすぎず、吐き出しすぎず、といったところだ。


 鋭く、しかし長く息を吐き、そしてまた吸うという行為を数回もすれば自然と全身の神経が賦活し、肉体を動かすに十分な活力を得た。


「──よし」


 一つ息を吐きだして俺は体を起こす。


 そうしてまず確認するのは自分の状態だ。


 見下ろした自分の体は特に負傷らしい負傷もなく、ここ最近ずっと身にまとっている黒色をした詰襟の猟兵用戦闘被服にも重大な損傷はない。


「ふむ? 装備は大丈夫そうだな」


 いま着ている戦闘被服は魔力に反応して増殖する魔法植物を原材料に編まれており、ある程度の損傷ならば魔力を通せば自然に修復されるようできている。


 とはいえ修復するにも限度があるわけで、原形をとどめぬほど破損していれば修復が不可能になるのだが、傷一つないということは、そういう損傷を受けてはないのだろう。


 さらに視線を下へと向けて腰元へ。


 そこにはぐるりとまかれるようにして呪符などを入れる革製の容器が吊るされており、中身を確認するが特に不足している感はない──その代わり、


「……武器がないな」


 いつもは右の腰につるしている杖剣がない。


 この洞窟がどこにあって、いまの自分がどういう状況に置かれているのかわからないというのに武器がないという事実に俺は眉をひそめながらも、しかし焦りは憶えなかった。


 代わりに俺の視線は反対側の左腰へ──そこに吊るされた手のひら大の機械端末へ向ける。


加護機アライメントはきちんと持っているのか」


 左腰に鎖で吊るされたこの機会は、これ自体が一種の魔道具であり、同時に魔導師の代わりに高度な術式を演算してくれる現代魔導師にとっての杖とでもいうべき代物であった。


 それへと手を伸ばし、左手に持った俺は、もう片方の手を空中へと向け薄く魔力を熾す。


 するとそれに反応した加護機が瞬時に俺の目の前の中空に半透明をした四角い形状の画面のようなもの──表示枠レベート・フェーアを展開する。


 展開されたそれを指でつつき、表示枠がきちんと正常に機能していることを確認した俺は一つ頷くと、そこから画面を操作し、一つの項目を選択。


《霊子情報保管庫》と書かれたそこを指で押した俺は、中にいくつも羅列する文字列を見て、想定通りのものが並んでいることに一つ安堵の息を吐いた。


「よかった、きちんと武器も格納されている」


 言いながら俺はその文字列の最上部にあった《杖剣》と書かれた項目を押す。


 すると俺の左腰に光が生じ、青白いそれはしばらく乱舞したのちに端から細長い形状へと収束していった。


 杖剣だ。


 魔法の照準器も兼ねた刀剣状の武装。


 それが自分の左腰に現れてずっしりとした重みを示すのを見て俺は一つ気合を入れる。


「……あとは【情報強化】も展開しておくか」


 念には念をと、俺は体内で魔力を熾した。


 魂魄内の魔力回路から、膨大な魔力が魔導師回路に送られ、起動式の演算を開始。


 魔導師回路と霊的につながっている加護機アライメントの補助も受けて瞬く間に術式を演算し終えた俺は魂魄と外世界を繋ぐ【回廊】を介して、物理事象上に事象改変力を作用させる。


 発動するのは【情報強化】の術式だ。


〝肉体という事象〟そのものに情報改変を加えることで自分自身の身体能力を最大で常人の三十倍にまで強化する魔法。


 常駐式であるこの魔法がかかっている間は、例え重機関銃の連射を受けたとしても平然としていられるほどの強度を肉体に付与するそれが正常に作動して俺は満足を覚える。


「うし、これで準備万端」


 頷き、そして両の頬を叩くことで俺は気合いを入れた。


 長いこと眠っていたおかげで気力は十分。


 武器も手元にあり、加護機も機能は正常で【情報強化】も発動済み。


 いまこの瞬間、魔獣達に襲われても撃退できるだけの準備を整えた俺は、とりあえず、というようにその視線をいまも陽光が差し込む洞窟の出入り口の方へ向けた。


「……まずは現状を把握しないとな」


 ここがどこなのか把握して、可能ならば宿営地に帰らねば。


 金銭で雇われた猟兵の身としていまも魔獣ども相手に奮闘しているだろう軍や猟兵達のもとへ駆けつけるのは当然のことである。


 そう考えて俺は陽光が差す出口のほうへと向かい、少し傾斜して段差になっているそこを【情報強化】によって発揮される脚力で軽く飛び越え、そして外へと出た。


「───」


 そうして洞窟から出た俺が最初に見たのは──視界一杯に広がる〝緑〟だった。


 正確にはうっそうと生い茂った木々の緑だ。


「森、なのか……?」


 どこまでも広がる広大な森林地帯。


 ずっと奥には緩く曲線を描く山の影が見えて、その間をなにやら鳥? だろうか、そんな影が羽ばたいていくのが見えた。


「ここは……?」


 言いながら俺は視線を下へと向ける。


 そこには茶色い地面があって、どうやら自分が今いる場所はどこかの崖の上らしい、と俺は遅れて気づく。


「本当にどこなんだここ……?」


 首をかしげてそんなことを呟いてみるが、返ってくる返事はなく。


 代わりに、さあ、と吹いた風がむせるような植物の匂いを運んできた。


「……とりあえず、下までいって情報収集をするか」


 言いながら俺は【情報強化】による身体能力任せに傾斜の激しい崖を下っていく。

 降りた場所には見上げるほど大きな木々が立っているのが見えたので、俺はそちらのほうへと近づいて行って、


「植生は……だめだ。見たことない植物ばっかだな」


 近くで見た木々はしかし俺の知っているどの植物とも違う種別のものだった。


 別に植物について特別詳しいわけではないが、それでも猟兵として魔獣狩りのため森の中でも活動することも多く、そのためよく行く場所の植物については頭に入れているのだが、その知識のどれとも違う植生の森に俺は眉をひそめて嘆息する。


 少なくとも、ここはあの魔獣達であふれかえっていた帝国辺境の近くではないだろう。


 ならば、どこだ、と言われるとそれは困るが。


「どうして俺はこの場所にきたんだ? 空間転移魔法……はないよな、そんな高等な魔法、俺には使えないし」


 きわめて高度な魔法力と特殊な適性がなければ使えない空間転移魔法。


 それを使ってこんなどことも知れない場所にやってきた、という可能性を考慮するも、しかし俺自身がそのような魔法を使えないし、またそのような魔法を誰かが俺へと使うという状況にもここ当たりがない。


「……とにかくいまは探索だな」


 そう呟きながら俺は改めて森の中へと入っていく。


 茂みをかき分け、森の中を探索するが、やはりというか見たことのない植物ばかりで、まいってしまう。


「これは、本格的にどこかわからないぞ」


 仕方ない、と息を吐いて、俺は一度足を止めた。


 そうして体内で魔力を熾し、演算するのは【探査術式】である。


 周囲に事象改変を伴わない事象干渉力を照射することで、一定範囲の情報構造を取得し、そこから周辺の状況を探査する、というその魔法で俺はとりあえず半径50リージュほどの円状に周囲を精査してみることに。


 周囲の探査してみるに、小動物めいた反応が返ってくるので生命がいない森というわけではないようだ。


「これなら救助が来るまでしばらくはもちこたえられるな」


 いまの内から、最悪の事態を想定してそう呟く自分自身に少し苦笑してしまいながらも、さらに【探査】を続けていた俺だが、


「───‼」


 自分のすぐそばに接近してくる大きな反応があることに気づいた。


 とっさに振り向いた先、そこにある茂みが揺れる。


 がさがさ、と音を立てかき分けられる草木。


 その奥から飛び出たのは、はたして。


【ぐぎゃ】


 ──緑色の肌をした小柄な人影だった。

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