琥珀に溺れる
柿尊慈
琥珀に溺れる
気付いたら、甥が知らない男に肩車されていた。
慌てて駆け寄る。森に囲まれてぼうっとしていたのがまずかった。何かあったら監督不行き届きで私のせいになるではないか。彼の父親である弟にはちゃんちゃら申し訳なさを感じるつもりはないが、奥様の方がかわいそうだ。あんな弟と一緒になってくれて、私ですらまだの結婚・出産まで済ませたのに、彼女のように人類の歴史に貢献できていない私のせいで一人息子がどうにかなってしまったら償いようがない。
「――せめて、結婚くらいしてから退職しなさいよ」
帰ってきて言われた、母の言葉が思い起こされる。頭を振る。うるさいな。そうやって圧をかけてくるから、止めないと押し潰されそうになっちゃったんでしょうが。
「あの、ウチの子なんですけど……!」
男性のシャツの裾を、ぐいっと引っ張る。当然だが男性は私よりも背が高く、細身ながらもシャツから覗く上腕はたくましい。甥は安心しきって肩車されているが、この腕で羽交い絞めにされたらたまったもんじゃないな。
だが、しかし――。文字通り何の生産性もない私ひとりが犠牲になって、未来ある子どもが助かるのならば、これくらい大したことないだろうし、むしろ尊い犠牲的な感じで扱ってもらえるんじゃないか――。
「おい」
はっとして、顔をあげる。
「いつまで引っ張ってんだ?」
「ああ、すみません……」
思わず手を放す。いや、違うだろ。放すのはお前の方だ。
「じゃなくて、その、肩の上に乗ってるのウチの――」
「あ、お姉ちゃんだ!」
元気な甥の声に、私の主張は掻き消される。危機感のない、楽しそうな声。この野郎、誰のためにこんなことしてると思って――。
「お前、
男性が、甲太を肩車したまま振り向いて私に言った。初対面の癖にお前とはなんだ、お前とは。というか、なんで名前まで知ってるんだ。知らない人に名前を教えるんじゃないよ。
咳払いをする。
「いいえ、叔母です」
「えー! おばさんって言ったら怒ったじゃん!」
男性の肩に乗って木を眺めていたらしい甲太が、私を見下ろして不平を言う。乱暴に甲太の口を手で塞ぐ。男性が笑う。
「――そうだな、おばさんって言われたら傷つくような絶妙な年齢だろうし」
ケラケラと男性が笑い、ワケもわからず甲太も笑った。ふたりして笑いやがって。というか、お前は誰なんだよ、お前は。
不審者とかではなさそうだし、ひとまず掴んだシャツの裾を放す。少しシワになってしまったが、謝るつもりはない。
「どうした? さわってみるか?」
ほどよくがっしりした腕へ視線が向いてしまったのに気付かれ、男性に嫌味を言われた。その腕にかじりついてやろうか。
大学を卒業したのが、もう8年前になるらしい。
地元はほどよく田舎。電車に20分も揺られればあっという間に街になる。他の場所で例えるならば、横浜の山の方、みたいな感じ。活気のある海沿いに背を向けて進んでいくと、どういうわけか山だらけ。なのに地名は一応横浜。そんな感じ。住所的には県庁所在地の市でありながら、地図で見るとほとんど隣の自治体。街と田舎の境目はハッキリとしていて、ある瞬間から視界に緑が広がる。仕事とプライベートをしっかり切り替える人でも、ここまで極端なスイッチはしないだろう。
そういうわけで、実家から街の大学に通い続け、その間彼氏がいたような、いなかったような。ほとんど記憶に残っていない。さすがに社会人になるときにはひとり暮らししないと、と思って家を飛び出してきたものの、そもそも勤め先も同じ市であるため、あまり離れたような気はしないし、何なら大学に行く感覚で会社に出勤していた。それくらいの近さだ。まあ、大学に通っているときの方が圧倒的に気楽だったけど。大学時代から交際していた男とはもはや何がどうなって別れたのかも思い出せず、休日に予定はなく、家でゴロゴロしてると貴重な休みは一瞬で溶けていく。
いつでも実家に帰れる距離にいながら、まあ何か逃げるみたいで、できるだけ近づかないようにしていた。そして本当に、つい最近までここに帰って来なかったんだから、甘えなかった私を誰か褒めてほしい。などと思っていたのに、いざ実家に帰ると年齢的に体調を崩しがちな母から、褒めるどころか嫌味を言われることになる。
というのも、仕事人間を自称していた私は、あるタイミングで何かネジが外れたようにミスを起こすようになった。性格が悪いが外面のいい後輩からは聞こえるように悪口を言われ、「何だよもう、じゃあいなくなればいいんだろ」と勢いで退職してしまったものの、辞めたことで完全に糸が切れたらしい。再就職に臨みつつも、面接で上の空になって適当な回答をしてしまい、未だにどこにも拾ってもらえず、こういうときは自然に囲まれて療養すべきだと、求職中の身でありながら実家に帰ってきたのだった。
なるほど、そう考えると「せめて結婚してから退職すべきだった」という母の言葉には大きく頷ける。経済、あるいは社会の回転。出産による、人類の種としての寿命延命。そのどちらにも貢献していない私は、大自然に歓迎されるどころかやたらと小さな虫に
極めつけは、既に子どもまで産んでくれた弟の結婚相手が、私たちの実家で完全に家族の一員となっていたという事実である。ひとつ下の弟が、どこで見つけてきたのか社会人生活早々に結婚し、1年後くらいにはもう子どもまで生まれた。その子どもも、私が白目を剥きながら実家に帰る頃には、もうすぐ小学校に通おうとしているほどまで成長している。
時の流れは残酷というが、妙に私以外の時間が早く進んでいるように感じた。もちろん、私も学生時代ほど若々しくないのは実感しているが、私の劣化速度なんかよりも速く地球が回っているような気がしてならない。
実家に帰ってきたものの、元気に遊ぶ我が甥・甲太と、よくできた弟の妻・渚ちゃんとが微笑ましく遊んでいるのを、信じられないくらいラフな格好でぼけーっと眺めている日々を過ごし、「甲太を見て母性とか湧いてこないの?」という、あからさまな母からの煽りを受けた私は「あるよ母性! 見てろよ!」と、母性と行動力を吐き違えたかのように、元気に外に飛び出してきたのだ。
「でもまあ、子どもから目を離したことには変わりないぞ」
どうやら甲太とはそこそこの付き合いがあるらしい男性は、例によって甲太を肩車しながら、初対面の私の哀れなエピソードに同情の欠片も見せず、ズバッと正論を返してきた。
甲太は先ほど拾った木の棒を振り回しては男性の頭をぽこぽこ叩いており、それのせいでこの男は八つ当たりのように私に毒を吐いているのではないかと推測してしまう。ちょっと甲太くんさ、ぽこぽこやめてみ?
「――まあ、反省はしてる」
ぶすっと返す。
「それと、すぐにあなたが見つけてくれて、助かったわ。ええと――」
「
どう呼んだものかと悩んだのを察してか、男はすぐに、しかし短く、自己紹介してくれた。
「そう、蔵谷くん」
「くん、って。先輩OLじゃないんだから」
蔵谷くんは笑う。
「何よ、30歳よりも若いっていうの?」
「残念ながら、同い年だ。というか、もうOLじゃないんだろ。OL時代の癖みたいの、やめたらどうだ?」
なるほど? なかなか良いことを言いよる、この男。
何人か男性の新入社員が入ってきたこともあったが、誰も自分より上のOLには興味をもってくれず、「○○くんとランチ!」みたいなイベントはひとつも起きなかった。というか、そこまでいい雰囲気の人もいなかったし。
その点、まあ、この蔵谷くんは、多少好みの顔と言えなくもないけど?
「言えなくもないけどって、何で上から目線なんだよ」
バカにするような笑いに、最初はイラッとしたものの、出会ってからの数分で、もはやクセになるつつある。こっちに来てから、真顔で嫌味を言ってくる母とバチバチし続けていたからかもしれない。
実家に帰って、母とバトルして、甥を見失って、初対面の男性にちょっと揺らぐ。
ほんと、何しに来たんだ、私。
「あら、蔵谷さん
「どうも」
蔵谷くんは私と甲太を家まで送ってくれた。また母に嫌味のひとつでも言われるだろうと構えていたのだが、私と彼が並んで歩いているのを見た母は、何か勘違いしたのか安心した様子で――それでいて、妙にキラキラニコニコした表情で、蔵谷くんに声をかけた。どうやら、ここも知り合いだったらしい。
蔵谷くんは甲太を肩から下ろす。甲太は手も洗わず足も叩かず、縁側からストレートにママの元へ駆けて行った。
「どう、母性は芽生えた?」
「ええ、ドバドバ出たわ、母性」
にこやかな母に、私はかえってイラついたのだが、小さく吹き出した隣の男へのイラつきの方が勝り、母とバトらずに済んだ。
「ほら、ゆきの。お茶くらい出しなさいな」
言葉は私に向けられたものだが、実際は「気が利かなくてごめんなさいね」と、蔵谷くんに言っているのが見え見えだった。
「いえ、ちょっと寄っただけですので」
にこやかな蔵谷くん。何だ、お前も随分外面がいいじゃないか。
一瞬ちらりと私を見た母の目は、それはもう流し目という言葉がぴったりの、この男を逃すんじゃないよと言わんばかりの眼光であった。すぐににこやかになるが、まさか蔵谷くんに気づかれてないだろうな。
甲太が寝ているのをいいことに、私は「目を離した」ということを隠しつつ、短いお母さん体験を、渚ちゃんに語った。
「ありがとうございます、遊び相手になってくれて。子どもは元気だから、どうにも疲れてしまって……」
ええ、あなたより歳を食った私は、もっと疲れてますとも。
「こんなにかわいいお嫁さんを置いて、アイツは土曜も仕事とはね……」
私の小言に、渚ちゃんは嫌な顔せず、むしろ何か恥ずかしそうに笑って、首を振った。
「本当ならもっと、あの人も甲太と遊びたいはずなんです。それを私と、お義母様とに味わわせてくれてるんですよ」
はぁ、そういう考え方もできるんだな。やっぱ私とはデキが違うらしい。これくらい穏やかじゃないと、結婚も出産もできないんじゃなかろうか。
「甲太は、蔵谷くんと仲がいいの?」
汚れたままの甲太の足の裏を突きながら、私は尋ねる。いいか、起きるんじゃないぞ。くれぐれも私の監督不行き届きの告発なんか、してくれるなよ。
渚ちゃんは、ふわりとした黒髪を靡かせながら、やさしい口調で答えた。
「ええ、そうなんです。ある日、私が目を離した隙に、飛びついてました。ちょっと強面ですけど、それくらいが子どもにはちょうどいいみたいで。甲太は昆虫が好きだから、よく肩車して木の高いところを見せてくれるんです。私はどうも、虫が苦手なので……甲太の好きなものに付き合ってくれる蔵谷さんには、感謝しています」
まあ、私も虫好きじゃないけどさ。なんか弟より父親っぽい感じじゃないか、蔵谷くん。気があるのか、もしかして。やめとけ蔵谷、相手は人妻だぞ。
「とはいっても、私はほとんど、直接蔵谷さんと話したことはないので、普段何してる方なのかとかは、全然知らないんですけどね。何でも甲太の話だと、カブトムシとかクワガタを育てている方だとか」
「ブリーダーってやつかしら」
うーんと、ふたりで唸る。儲かるんだか儲からないんだか、わからないな。たしかに、こういった緑豊かな地では、昆虫はたくさん集まるのかもしれない。いや、だがしかし……。あまり全うな仕事には思えないのは、私がその界隈について詳しくないからか。無意識に職業差別をしているのかもしれない。
「あの、お義姉さん。提案なんですけど……」
渚ちゃんが、少し声をひそめて言う。誰に聞かれまいとしているかと言えば、甲太ではなく間違いなく母だ。
「――家を教えたつもりはないんだが?」
「いいじゃない、私たちの間柄でしょう?」
目を細めて、あからさまに不機嫌になった蔵谷くんは、乱雑にものを詰め込んだ私のトートバッグに目を向けて、さらに眉間の皺を深めた。
「梅酒作ってるって聞いたのよ。ぜひ味わいたいと思ってね」
ズケズケと人の家に上がりこむ。家にいるよりはよほどいい。機嫌を損ねたとしても、ただの他人だし。いや、もっと何か警戒すべき点はあるんだろうけど。
「――お義姉さん、こっち帰ってきてからとても辛そうに見えて」
渚ちゃんの言葉を思い出す。
「――それでその、いっそこれを機にっていうか、蔵谷さんのところで過ごしてみるっていうのはどうでしょうか?」
あまりにも予想外の提案に、私はひっくり返りそうになった。
「――どうやら蔵谷さん
「――いやいや、それでこう、何か過ち的なことが起きちゃったらさ」
「――たぶんかえって、お義母様は喜ぶと思いますよ」
「――ぐうの音も出ないわ」
「――それに、強引に押しかけるくらいの方が、ちょうどいいと思いますよ。というのも……」
「――というのも?」
「――そのおかげで、甲太が生まれてきてくれましたから」
想像以上に積極的というかアグレッシブというか。花嫁として見習うべきところがたくさんあるなと思っていたが、まさかそういったことでも勉強させられるとは思わなかった。人は見かけに寄らないな。
「それとも、渚ちゃんがよかった?」
意外にもきれいな廊下を渡りながら、意地悪く、蔵谷くんにぶつける。わかりやすく、苛立っているのが見えた。何というか、わかりやすいとからかい甲斐がある。
「人妻に手を出す趣味はないし、好みじゃない」
「へぇ、じゃあどんな娘が好みなの?」
母の流し目を思い出し、再現してみたのだが、言ってる間に蔵谷くんはどこかに消えていた。嘘でしょ。放置? まさかいなくなったとかじゃないよね?
勝手に、畳に座る。扇風機が見えた。つけちゃえ。風が起きる。
田舎の家なので、正直実家とそう造りは変わらない。口うるさい母はいないし、もう夜になっているというのもあり、静かさを通り越して恐怖さえ感じる。扇風機の起動音が、妙に無機質で余計に恐怖心を駆り立てた。
どうしよう、置き去りにされてたら。私は今晩、よく知らない男の家で、本人不在のまま寝泊りしなければならないってこと? 居直り強盗じゃないんだから。
「――最初に言っておくが」
不安に駆られていると、急に声が聞こえたので、私は素っ頓狂な声を上げてしまった。畳の上にゴロゴロと寝転がっていた私は、突然現れた、暗くて顔の見えない男に驚く。
「うちの梅酒は、アホほどうまいぞ」
どうやら梅酒を取りに行っていたらしい蔵谷くんは、琥珀色の液体に満たされたビンを手にして戻ってきた。ご丁寧に、氷の入ったグラスをふたつと、おたまも用意してくれたらしい。
彼の手がビンの蓋を掴む。ぐっと力が込められ、浮き出た血管に青い影が落ちる。ドキリとするが、小さく頭を振って正気に返った。蓋が開き、ツンと甘い匂いがする。なるほど、たしかにこれはうまそうだ。
「梅酒は、ロック以外認めない」
言いながら、おたまで掬った梅酒をグラスに注ぐ。夜の青い光を反射した氷が、途端に飴色に染められる。パキパキと、氷が溶ける音がした。
何だか、緊張してきたぞ。自分で足を突っ込んでおいてなんだが、何だこの状況は。大丈夫か、私。いくら相手が、子どもと遊んでくれるような男とはいえ、初対面の同い年だぞ。
自分のグラスを手に取りながら、じっと私を見てくる。逆光であまり顔は見えないが、おそらくは私の感想を求めているのだろう。
「では、いただきます……」
とりあえず、めちゃくちゃおいしかったのは覚えているのだが、そこからの記憶がない。
目覚めるとバカみたいに暑く、しかし畳の上でそのまま寝ていたもんだから、服から露出した部分は冷えているという妙な体温感覚に苛まれていた。頭が暑い。誰かのために伸ばしたわけでもないこの髪は、ただ熱を留めておくための装置にすぎない。なみなみとあったはずの梅酒のビンは空っぽになっていた。それどころか、3つくらいに増えている。もはやお互いがどれくらいの比率で飲んだのかさえ思い出せないが、私の頭くらいの大きさのビンが空になるほどだから、相当飲んだに違いない。
頭は蒸れるわ、痛いわで、散々な目に遭ったもんだと思ったが、嫌味と圧力でズキズキするよりも、「完全に自分のせい」で痛む方がよほど気が楽なことにも気づく。
「――いい飲みっぷりだったな」
蔵谷くんが、おそらくは昨日梅酒が注がれていただろうグラスを持ってくる。とはいっても、中は透明なので、おそらく水だ。
蔵谷くんは、私のように苦しんでいる様子はない。
「なんか、随分ケロッとしてるわね。お酒、強いの?」
おそらくかなりひどい顔をしているだろう私の顔を笑うことなく、彼はグラスを私に差し出した。からんと、氷の音がする。受け取って、飲む。喉の奥からキンと体内が冷えていく。
「まあ、俺は最初の一杯だけだったし」
「それ、ほとんど私が飲んでたってことじゃん。さすがに致死量じゃないの? ああ、私はここで死ぬんだわ……」
うつ伏せのまま顔をあげると、やっと蔵谷くんがにやりと、例の小馬鹿にしたような笑みを浮かべているのが見えた。
指が伸びてくる。私の頬に触れて、数回往復した。
「……なに?」
「畳の跡が――」
その言葉に私はバッと起き上がって、思い切りちゃぶ台に足をぶつけてまた寝転がる。蔵谷くんは笑った。
「シャワーでも浴びて、少しスッキリしてくるんだな。ああ、でも着替えは――」
「持ってきてある」
私は、人ん家だというのに無造作に置かれたトートバッグを指差す。
「それならオッケーだ。じゃあ、俺は少し出てるから」
「日曜なのに仕事ってワケね。ほんと大変そうだわ」
農家の人に休みがないのと同じように、昆虫のブリーダーってのは、毎日昆虫見なきゃいけないのかな。というか、冬とか何してるんだろ。
蔵谷くんは珍しく不思議そうな顔をして答えた。
「甲太と約束してるだけだ。ちょっと遊んでくる。ゆっくりするといい。実家より居心地いいだろう」
「まあ、そうだけど……」
ふと気になって、自分の服装を確認する。随分と崩れているというか、伸びきっているというかそんな感じなのは、ただ寝相が悪かったからだろうか。熱い夜を過ごしてしまったとか、そういう形跡は――。
「ああ、お前が思ってるようなことはないぞ」
蔵谷くんが立ちながら言う。
「散々同じ話を何度も何度も、繰り返し繰り返し喋り散らしては、泣いたり笑ったり忙しいマラソンを50周くらいして、急に死んだように眠った。すまないな、かけてやれる上着もなかったんだ」
安心というか、残念というか、申し訳ないというか。ごめんな、渚ちゃん。あなたの作戦、うまく遂行できなかったよ。私は、ただ酒飲んで酔っ払って寝るだけの、色気のないOLから脱却できなかったみたい。もうOLじゃないけど。
「とりあえず、今日は1日休んでるといい。どうせしばらく暇なんだろうし、実家との今後の付き合い方でも考えてたらどうだ」
そう言って蔵谷くんは、私ではなく甲太を選んで外出していった。昨日出逢ったばかりの男性の家に、ひとり取り残される悲しき元OLの完成である。
ひとまず忠告通りに、シャワーを浴びることにしよう。この家でどう過ごすか、今後母とどのように付き合っていくべきか、仕事どうしようか、そんなことはあとで考えよう。
せっかく着替えた服も、うつ伏せたり仰向けになったり転がったりしているうちにすっかり畳まみれになってしまった。
蔵谷くんが帰ってくる。子どもの相手をしてきたからか、ところどころシャツが肌に張りついていた。私は何となく彼から目を逸らすが、彼はテレビの画面をじっと見ている。
「――何だ、それは」
人の家で勝手にDVDプレイヤーを引っ張り出してきて、勝手につないでアニメ鑑賞をしている私を叱ることなく、彼はまずそのアニメそれ自体に疑問があるようだった。当然だ。さっきから画面ではイケメンキャラたちが、特に深い意味もなく敵との戦いの中で服にダメージを受け、「もうそれ何も守ってないのでは?」という格好で堂々とカッコつけているのだ。
「ええとね、昆虫をモチーフにしたヒーローに変身するヒーローたちが、これまた昆虫をモチーフとした敵役たちと戦うアニメで、無意味に服が破れるのが、アニメ好きの女子たちを喜ばせているという、作品です」
蔵谷くんは何も言わないで、ただ細い目をして私とテレビ画面を交互に見た。テレビ周りの掃除をしたことを、ちょっとくらい褒めてくれてもいいだろうに。
蔵谷くんがすっといなくなると、しばらくしてシャワーの音がした。未だに扇風機が頑張っている、エアコンのない家。スマホは――そういえば蔵谷くんの家に来てから触ってないな。時間感覚が狂う。DVDを再生しているから、パッと現在時刻は確認できない。かといって、テレビ放送に切り替えて確認しようとまでは思わなかった。外は明るいし、何かお腹も空いてないし、意外と早い時間帯なのかもしれない。酒に酔うと眠りが浅くなって、意外と早く起きたりするし。
しばらくして、着替えてさっぱりした蔵谷くんが戻ってきて――テレビを消されるかと思ったがそんなことはなく――転がる私のそばで、片足を投げ出して静かに座った。どうやら、私の趣味に付き合ってくれるらしい。
趣味っていっても、そこまで内容に思い入れがあるわけじゃないし、何なら裸目当てで購入したところがあるので、もはや内容などただぼうっと眺めるだけ。
「――面白いのか、これ?」
蔵谷くんが、言ってはいけないことをポロリとこぼす。
「残念ながら、別にって感じかな」
仰向けになって、彼を見上げる。彼は画面を見たままだ。
「じゃあ、何で観てるんだよ」
「何でだろうね」
何となく、彼のシャツの裾を引っ張る。昨日、甲太を返してもらおうとした時と、同じように。彼はちらりと私を見下ろし、シャツの安否を確認するが、すぐにテレビに向き直る。それから何度か引っ張ってみても、私には見向きもしない。
ぺらりと、掴んだ裾をめくってみる。背中が見えた。彼は気づかない。少しだけ、素肌目がけて息を吹きかけてみる。ビクともしない。少しずつ、吐く息を強くしていく。何度目かで、さすがに彼も気付いたようで、ぺしりと軽く、額を叩かれた。私の痛がる声に、彼の小さな笑いが重なる。不思議と、嫌な気分ではない。
背中を指で突いたら、すぐに手を掴まれた。大人しくしてろと、畳の上に手が重ねて置かれる。じんわりと、熱がこもっていく。暑さのためか、私の緊張のせいか。
そうやってしばらく、彼の左手と私の右手は、一見するとつながれていて――実際は、イタズラしないように抑えつけられているのだが――そのままアニメは流れっぱなし。がちゃがちゃと、男性声優の「ぐあー!」みたいな声が聞こえてくるが、彼も私も一言も発しない。
緊張しつつも落ち着くという、それは奇妙な感覚に包まれる。安心感というのは、こういうことなのだろう。本来なら実家で味わうべきものだったが、あそこに私の居場所はない。色々なことに貢献している渚ちゃんのような娘のためにあるもので、絶賛親不孝中の私がいるべきところではなかった。
開いた左手で、彼の手首を掴む。ぐいぐいと引っ張ってみるが、当然ビクともしない。とはいえさすがに気づくので、彼が私を見下ろす。視線が重なるが、何も言わない。ただ、引っ張る。何度か繰り返して、彼が諦めたように寝転がる。
引っ張る、引っ張る。彼がこちらに体を向けてくれた。
引っ張る、引っ張る。彼の瞳に、私らしきものが映った。
引っ張る、引っ張る。少しだけ彼の体が近づいた。
引っ張る、引っ張る。それでおしまい。何かいい雰囲気というか、いい感じだけど、彼はただ真っ直ぐ見つめるだけ。いくら引っ張っても、これ以上彼は何もしてくれない。
押してダメなら、引いてみろ。引っ張ってダメなら、こっちから動くしかないのだろうか。
じりじり、彼の方に体と顔を近づける。腕を掴んだまま、手を重ねたまま。
まるで彼の顔から聞こえてくるかのように、アニメの音が少しずつ大きくなった。実際は、音量は変わっていない。きっと、私の感覚が、ちょっとずつ鋭くなっているだけ。
これ以上、近づいていいのかな。もしかすると、私が甲太の口を塞ぐように、彼の手が私の顔を掴むかもしれない。彼の手なら、平気で鷲づかみにできるだろう。
開いた左手を、顔の左側に構える。
「――何だよ、その手は」
久しぶりに、彼の声を聞いた。
「顔掴まれそうになったら、払いのけようと思って」
久しぶりの私の声は、少しかすれている。かすれと共に、震えも。
ぱしっと、彼の右手が私の左手を掴んだかと思うと、しっかりと指を絡めて、捕まってしまった。
「払いのけたりしねぇよ。いいから安心して、来い」
安心して、来いですか。そうですか、ええ。
こちとら緊張してるんですよ。色んなことが久しぶりだったり、初めてだったりしてさ。
そういえば、これで彼に恋人がいたらどうしようかとか、何かどうでもいいことが頭をよぎったが、それに蓋をするかのように――。
やってしまった。熱さにやられていたのか、本当に既成事実をつくってしまったではないか。
「――あからさまに、後悔してる顔されると、俺も微妙な気持ちになるんだが」
DVDはとっくに再生を止め、彼の顔の奥に見える外の景色は、オレンジ色から紫色に変わっていく。夜通しならぬ、昼通しだ。空腹も忘れ、しっかりと悲しき元OLを慰めていただいてしまった。
「逆に聞くけど、蔵谷くんは後悔してないの……?」
「そう見えるなら、伝わるまでしてやろうか?」
ぎょっとする。意地悪な顔が見えた。おいおい、随分と心開いてくれるじゃないの。さっきから手つなぎっ放しの私がいうことじゃないけどさ。
「私は、今や仕事のない、行き遅れの、30歳」
「そうだな」
「で、あなたは、仕事内容が不透明な、昆虫ブリーダー」
「……うん?」
「正直、やってける自信がないのよね。ちゃんと働いてよって、泣きつきたいくらいよ。冬の間、何してるの? 農家みたいに、どこかに出稼ぎに行ったり――」
「おい、待て」
ぎゅっと、手に力が込められる。
「何だ、昆虫ブリーダーって」
「え? だって甲太は、そう言ってたらしいけど」
「冗談に決まってるだろ。子どもはそれくらいの方が喜ぶんだ。昆虫については、ほとんど甲太に合わせてやってるだけで、俺はそこまで興味ない」
「じゃあ、何でウソついたのよ。冗談って言うなら、そのあとちゃんと本当のこと教えてあげればよかったのに」
「子どもに言えない仕事なんだよ」
「えっ」
体を起こし、彼がシャツのボタンを留め始めた。
「実際に、見てもらった方が早いか。行くぞ、職場見学」
「なるほど、たしかに子どもには言えないわ」
車に乗せられて、ちょっと横顔に見蕩れていたら、すぐ目的地に着いた。臨時休業の文字の書かれた紙が入口に張られている。裏手に回り、彼が取り出した鍵で中に入る。
電気がつく。圧巻の光景である。
「結構、大きいのね」
「駅前の居酒屋にもよく配達してるから、店で出会った酒を、手数料なしで楽しみたい客も利用してくれるんだな。まあ正直、ここでの売上なんて、飲食店に売りつけてる額に比べれば大したことないんだが」
「あの梅酒は、売り物?」
「あれは、趣味だ。売りもんだったら、今頃金取ってる」
火事が起きたら大爆発だろうなと言わんばかりに、狭苦しく並んだ棚に狭苦しく酒のビンが並んでいた。焼酎、ワイン。冷蔵庫にはビール。ソーダやトニックなどの割り材。エアコンを聞かせた部屋には、たくさんの日本酒。
子どもに言えない仕事とは、酒屋のことだった。
「ご覧の通り、店は狭くてね。身動きが取りづらい。たまにだが、高い酒を盗んでいこうとする輩が出てくる」
店舗は広いが品数も多いので、たしかに通路の幅は人ひとり分しか残されておらず、咄嗟に追いかけるのも大変だろう。
「そうすると、俺は店の入口で見張っててもいいわけだが、レジに誰かいないと今度は商品を客に売ることも出来ない」
彼がレジをとんと叩く。私は壁にもたれる。商品が面積を食ってるので、レジ裏もかなり狭い。
「つまり、もうひとり誰かいてくれると、すごい助かるってことなんだけど」
彼が目の前に立ち、私の手を取った。客のいない酒屋で、口説かれてる。口説かれてるのか? わからん。
「――そんなにお客、来ないんでしょう?」
店内が明るいからか、彼と目が合わせられない。さっきまでゼロ距離だったのに。
「お前ならわかるんじゃないか。ひとりってのは、退屈なんだ」
「わかるけど……」
「客がいない間は、こうしてくっついてればいい」
いや、ちゃんと働いてよ。
そんなことを思いつつ、どんどん指が絡まって、「まあ、働き口も結婚相手も1度に手に入るならいいか」と思い直して、結局、またお互い腕を背中に回して――。
ああ、もう、言葉にするのも恥ずかしい。
琥珀に溺れる 柿尊慈 @kaki_sonji
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