第50話 雪の降った日

 突然、下品な笑い声が聞こえてきて驚いた。


「お、及坂さん?」


「……あ、はい?」


 及坂は明らかに今電話を切ろうとしたところを慌てて耳に当て直した雰囲気で答える。


「いや、今……なんか、言わなかった?」


「え? いえ、私は何も」


「ギャハハハハハハハハ」


 また別の声で聞こえる。しかし、スピーカーからではない。


 ――ここだ。この喫茶店だ。しかし、周囲を見回してもこの笑い声を訝しがるような客はいない。


 ……背筋に寒気が走る。猛烈に嫌な予感がする。


「ギャハハハハハハハハ」


 下品な笑い声は複数人の声が段々と重なっていく。子供のように高く、大人の男性のように低いものが混じっている。……それは、僕の目線の先、喫茶店のトイレから聞こえてきていたのだ。


 ――井崎真は、<ミトリさま>の呪いで殺された。


 そうだ。そこまではいい。そこまでは分かる。

 だが、井崎真もまた、<ミトリさま>の儀式を行っていた、としたら――


(<ミトリさま>は一度なったら戻れない) 


 テーブルの上に転がっていた木戸の使ったナプキンが、入り口からの風に揺れて転がった。それは黒く染まっていた。血とも思えない、黒い、何か。それは確かに木戸の口から吐き出されたものに違いない筈だった。これは何だ。


 ――だとすれば、<ミトリさま>は死んでも<ミトリさま>なのではないか。死んでも決して断ち切れず、あの不気味な世界へ生きている人間が引っ張られる程の関係性、それが及坂に迫っていた何かなんじゃないか?


 そして、呪い返しによって及坂から離れたそれは。


 僕は立ち上がって、木戸が入っている筈のトイレの前に立った。中からは耳を覆いたく鳴るほどの大きさで「ギャハハハハハハハハハハハハ」という笑い声が絶えず響いている。


 その扉のノブに手を掛けた瞬間。ドンッという音と共に扉がこちら側に大きく歪曲したので僕は背中を壁に打ち付ける程驚いてしまった。


「……木戸さん!?」


 慌ててドアを引くと、鍵は掛かっていない。


 誰もいない個室がそこにはあった。


 小綺麗な洋式便座は閉じたままで、小さな洗面所にはナプキンにこびり付いていたような黒い液体がぶちまかれている。出しっぱなしになっている水は、その黒い液体を滲ませて水道管に流し込んでいた。


 木戸はどこにもいない。便座の上の、小さな窓が開いていた。


 呆然としてトイレから出ると、何事かとこちらを瞠る複数の目があったが、すぐに興味を失ってそっぽを向いた。ここに入っていた筈の女性のことなど誰も気にしちゃいない。


 ただ、少年だけはニコニコと立ち竦む僕を見ていたのだった。


 ――それから数日後、木戸の体は札幌市の都市部を流れる創世川で見つかった。後から聞いた話では、目鼻口から流れ出した黒い液体は文字通り肌に染み込んでいたらしい。鑑識はそれを炭などを含んだ水だと言っている、とのことだったが聞いた話なので本当のところは分からない。


 今年初、雪の降った日のことだった。


 *


僕たちは美幌へ向かう電車に乗っていた。平日の昼間だ。乗客は、見渡す範囲には車両先頭の席に座る老人しかいない。横並びの座席で、通路を挟んだ向かいの席には道地君が座っている。

 

「……で、あのガキは結局どうなったんだ?」


 スマートフォンで(!)おじさんを溶岩から守るパズルゲームを遊びなから道地君が言った。


「一度病院で健康状態を見て貰った後は、市の養護施設で親戚が名乗り出るのを待っているんだってさ」


「けど、親戚なんていないんでしょう?」と道地君の隣――窓側の席に座る伊代。「まさか南戸君がその子の親になるんじゃないでしょうね」


「そんなわけ……って笑い飛ばしたい所だけど、どうもそういう話になりそうで参ってるんだ」


「おいおい、冗談だろ? お前奥さんもいないのに。……ってか、付き合ってる奴もいないのに!?」


「叔父さんが里親に乗り気なんだ。これも縁だってさ……。だから、親になるっていうか、兄? になるのかな。一応。で、面倒を見させられそうになってて」


「南戸君も、まだまだ人生波瀾万丈ってわけか」伊代が悟った笑い方をして言う。「<ミトリさま>の子――その子もまた、都市伝説の子供ってことになるのかしら。どうも、つくづく縁があるのね」


「何と?」


「都市伝説と呼ばれているやつと……。ちょっと、道地君?」


「ん?」

 

 おじさんの救助に熱中している道地君が顔をあげる。

 

「そのゲーム、変な広告のやつでしょう? 実際に遊んでる人みたの、道地君が初めてよ」

 

「いいじゃねえか、別に……。そこらのジジイだって電車でゲームやってるんだぜ」


 道地君は、あの山の一件で流石に自分のデジタル知識のなさを恥に思い始めたのか、ここのところ急速に身の回りの物をデジタルに置き換えているようだ。


「ちょっと前は、ゲームで遊ぶ大人に嫌気が差したなんて言っていたのにねえ……」


 そう。<ミトリさま>の一件で変化があったのは僕だけじゃないのだ。道地君は勿論、及坂だって。多くの人がそうだろう。あの少年も。……そして、これから合う予定のあの人も、僕の予想が正しければ急激な――とてつもない変化に見舞われる筈だ。


 必ずしもそれらの変化が良きものとは限らない。間違った方向に進むこともあるかもしれないし、変化そのものに多大なストレスが掛かることもあるだろう。


 だが、必ず必要なんだ。人は変化して――成長する生き物なのだから。


「やだ! ちょっと、道地君!?」


 突然伊代が道地君のスマートフォンを眺めて悲鳴を挙げた。


「南戸君! 道地君がおじさんのゲームに課金してるっ!」


「ええっ」


 それに。変わらないものもきっとある。

 

 道地君がとてつもない情弱なこと、とか。


「おい。カキンってなんだ?」

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