第36話 命をかけた追走
目が覚めた。
どうやら僕は、草場の中に顔を突っ込んでいるらしい。
唇の端に何かの虫が這っていることに気が付いて、慌てて手で払う。頬に付いた土埃がざらりと落ちた。そのまま立ち上がる。足はしっかりと僕の体を支えた。三半規管に問題は無いようだ。擦り傷以外に怪我もしていないらしい。
空を見た。暗い。
木々の葉に覆われていたことを思い出して、スマホの時計を見る。先程からさほど時間は経過していないようだ。――気を失っていたのは数分くらいか。
(どうしようか)
僕が使っていたGPSは道地君に渡してしまっているし、このまま闇雲に山頂を目指した方が無難だろうか? いや、<留巌村>へは山頂ではなく峠の方を通過するルートだった筈だ……待てよ?
僕はさっき時刻を確認したスマホを取り出して、標準の地図アプリを起動した。今の今まで忘れていたが、スマホにもGPSは搭載されているのだ。
アプリが開くと、灰色の背景の上に現在地を示す青い点が表示される。それだけで、画面には何も読み込まれない。
(駄目か)
標準のマップアプリはオンライン状態で無ければ自分の現在位置は表示するものの周辺地域の地図情報は表示できないようだ。以前圏外の地域でマップを開いた時は表示されたような覚えがあるのだが……あれはキャッシュが残っていたのだろうか。
不意に、何かの視線を感じて斜面の上を見上げた。
そこにあった二つの目玉と目が合う。暗がりの中では目立つ白いシャツに、着古したジーンズを履いた少年だ。結構遠いが、お互い山の中では奇異な存在なので距離の割に息づかいが聞こえるようだ。
僕は息を呑んだ。果たしてあれは、生きた人間だろうか? いや、そんなわけが無い。こんな所に生きている人間なんて――
僕が考えている間に、少年はみるみる顔を青くして一目散に山を駆け上がり始めた。
「あっ!」
いや、いる――そもそも僕らはこんな所で生きてる人間に会いに来たんじゃないか。
僕は少年を追って全力で山を駆け登り始めた。
「伝道師――!」
それしかない。何より山を駆け上がる少年の姿は力強く、生き生きとしている。まるでパルクールをするように土を蹴り、枝を掴み、岩場をスキップして駆け上がっていくのだ。
勿論僕にはそんな真似は出来ない。が、とにかく気力を振り絞って泥臭くとも少年を追った。何と言っても彼を見失ったらいよいよ遭難者の仲間入りだ。文字通り死ぬ気で走るのだ。
走れ!
*
死ぬ気で走っている内に、いつの間にか道が平坦になっていることに気が付いた。そういえば、ちょっと前から飛んだり跳ねたりしていない。
こうなると足が長い僕の方が有利だ。視界に捉えている少年の姿はじわじわと近づいてくる。少年もそのことに気が付いているようで、ちらちらと後ろを見やってはうんと足を動かす。
そろそろ数十メートルに近づいたと思ったところで信じられないことが起こった。前を行く少年が途端に体勢を崩して砂利道の斜面に手を突いた、と思ったら何と四足歩行に切り替えて猛然と走り出したのだ。
「……そんなのありかよっ!?」
地形的に二足で走るより四足歩行の方がバランスが取れるらしく、みるみる少年の姿が遠のいて、終いには視界から消えてしまった。
――何て奴だ。野生児か?
僕はとうとう立ち止まって膝に手を突いた。途端に顎の先から汗がバタバタと流れ落ちる。
「くそっ……」
ここ数日で最もハードな運動だった。数キロ減ったんじゃないだろうか。
……何を呑気なことを考えているんだ。これでいよいよ遭難だぞ。
取り敢えず、落ち着け。
僕は深呼吸をして息を整えた。肺に酸素が行き渡って気が付いたのだが、周囲の様子がさっきまでとは随分と違う。この砂利道の辺りは木々が綺麗に除けられていて、眩しいほどに陽が差している。何より、何となく人に歩かれ慣れた様子なのだ。
もしかしてさっきの少年を追っている間に人が通る道に出たのだろうか?
辺りに気を払いながら道なりに歩みを進めていくと、眼前の坂の上から広大な青さが頭上に持ち上がってきた。
空――ではない。海だ。
海が見える。
坂道を昇り着ると、眼下の風景が大きく開けて見えた。ひしめき合うように軒を並べる古民家の屋根に、海沿いにはぐるりと堤防が設けられており、少し離れた陸の方にはボートの残骸が数隻分並んでいる。視界の端の方では緑の山が盛り上がり、丁度平地になっている地形に添って人の痕跡が連なっているという感じだ。
間違い無い。
「……<留巌村>だ」
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