第5話

おれは塾でリョータ以外にも名前を知っている人ができ、内心嬉しかった。

店を出て、陽の傾いた道をプラプラと歩きながら家路につく。


さっきのは一体何だったのだろう。生霊の類には慣れているけど、あれはいつもと違う。

明らかに何かに食べられていた。唸り声が聞こえたけど、犬…? だったのかな。

犬がおれを助けてくれたのだろうか。何の因果か知らないけど、そうであれば嬉しいな。


でも物理的に霊を食べるなんてすごいな、どんな仕組みだろ…。

ここまで考えて少し怖くなってきた。


そんなに強いものならば、助けた見返りを求めてくるんじゃないかな? 

霊を食べた見返りって想像できないけど、大丈夫だろうか。

あの犬っぽいの、今もそばにいるのかな、そういえば霊を食べた時も気配はしなかったんだよな。おれがよく見る黒い影と何か関係あるんだろうか。


考えれば考えるほどわからないことだらけで、家についた時にはすっかり日は暮れてしまっていた。


「ただいま…」


玄関を開けると家の中はいつも通り暗く、下駄箱の上に置いてある銅製の蛇がこちらを睨みつける。靴を脱ごうとすると、二階で勢いよく扉が開き、乱暴にバタバタと階段を下りてくる足音がした。やばいかな…。


「晨比君‼」


案の定、母が血相を変えておれに詰め寄ってきた。


「どこに行ってたの⁉ 塾から電話がかかってきたわよ! 授業の途中でいなくなったって、どこで何してたの⁉ 答えなさい!」


母は興奮して、おれの肩を揺さぶりながら問い詰めた。


「ちょっと気分が悪くなって…喫茶店に行って休んでたんだ」


その言葉でさらにヒートアップしたらしい。


「そうならそうと、先生と相談してから行きなさい! どうして普通にできないの⁉ 他の子はみんなそうしてるでしょう⁉ 私に恥をかかせないで! お願いだから‼」


叫び声というより悲鳴に近かった。


この人は…どうしていつも、大したことないことで大騒ぎをするんだろう。


「もう塾になんか行かせないから! 電話してやめさせるわ。家にいなさい!」


そう言うとアサヒからカバンをひったくり、ファスナーを開けるとその場でひっくり返した。中にある教科書やノートがバラバラと玄関先にちらばる。母はしゃがみこむとその中から塾の生徒証をひっつかみ、電話のある方へと行こうとした。おれはあわてて引き止める。


「待って! おれどうしても行きたいんだ」


母は、これまで何かしたいと言ったことがなかった息子が、自分から言いだしたことに驚いていた。いや、本当は自分のそばにいさせるために、彼のしたいことを邪魔し続け、毎回諦めさせてきたのだが…。


アサヒにとって塾自体は特に面白いというわけではなかったが、リョータや新しく知り合ったクロに会えなくなるのが寂しい。それに夏休み中ずっと家にいるなんて嫌だ。この人に何をされるかわからない。


母はおれに向き直り仁王立ちで言い放った。


「じゃあ、あやまりなさい」


何に対して謝ればいいのかアサヒにはわからなかったが、いつも怒った後に母はアサヒに謝罪を要求した。今回は何で怒ってるんだっけ。


「これからは、気分が悪くなったら先生に相談します。ごめんなさい」


恐らくこれのことで怒っているのであろうと思い、おれは謝罪した。


「違うわよ! 私に恥をかかせたことを謝りなさい!」


激が飛ぶ。違った。もう一度謝った。


「ごめんなさい」


小さい声で呟く。だが母は大声でまだ何か言っている。


だんだんと目の前がチカチカと明滅して頭がグラグラしてくるのを感じた。そこに母の平手が飛ぶ。ふらついて玄関に膝をついてしまった。それをいい機会だと思ったのか、声が嬉しそうに一オクターブ高くなる。


「手をついて謝りなさい!」


これもいつものこと。

抵抗する気力もない。

言われるがまま両手を玄関の床につけ、頭を垂れた。

父の靴の匂いが鼻をついた。


「ごめんなさい。もうしません」


これで落ち着くといいな…と思ったが、上から後頭部を力いっぱい殴られた。

意識がぼおっとする。


「どうして! どうしてあんたはそうなの!」


母が叫びながら楽し気に、何度も自分の頭を殴る衝撃が伝わってきた。


冷たい玄関先に身を小さくしてうずくまったまま、どのくらい耐えただろうか。


「アサヒ、もういいわよ。ご飯食べましょう」


息を切らしながらも落ち着いた声がしたので、おれはゆっくり頭を上げた。母はそのまま台所へと立ち去る。体中が痛んだ。ふらつく足で立ち上がると、散らばったものを拾い集めてカバンに戻してから、のろのろと靴を脱いだ。


「着替えてくる…」


誰にともなくそう言い残すと、二階の自分の部屋へと向かおうとした。が、強烈な吐き気を覚えてトイレへと飛び込んだ。

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運命 @Mutsuki_Kokuyo

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