第4話

ふと、背筋に悪寒が走り抜けたおれは辺りを見渡した。


これまでの経験から、何か良くないもの。濃密で暗い気配から、恐らく生霊の類が近くにいるのを感じていた。喫茶店の自動ドアが空き、高校生くらいの五人組が入ってくる。


「あっちー。マジ」

「ここでいい?」

「何頼む?」


大声で話す会話がこちらまで聞こえてきた。


「あ。ソファ席にしようぜ」


誰かが言い、おれとクロの座る席のほうへ近寄ってきた。

この集団の中の一人に生霊がついているのだろう。


だが、見えてもわかってもどうにもできないので、なるべくそちらから視線を反らせるようにした。隣の席にその集団が座るドカッという音がし、霊気というのだろうかその生霊の気配が一段と濃くなった。クロは少し苛立ち気味にそちらを一瞥する。生霊は女性らしく、長く垂らした黒髪が目の端に映った。


「ああああ…」


女の口から断続的に小さな音を発しているのが耳に入ってくる。

とても嫌な感じだ。どうかこちらに気付きませんように…と願う。

彼らの騒がしい笑い声が聞こえてきた。


「ていうかさ、まじ大地さん面白え」

「あ? 何がよ」


答えたのは大地という男子だろう。


「なんか隣のクラスの女子がさ、大地さんが好きで好きで、ストーカーみたいになっちゃったじゃないスか。家の前でずーっと待たれて」


「あれはまいったな」


クスクス、という笑い声が混じった。


「自殺未遂までして、手首切っちゃった~とかいって、電話きたから」

「うるせえブス! って言って切ったんスよね」

「そしたら、血ィだらだら流して学校きて、『大地ィ~』って大地さんにすがりついて」

「ああ、あれは相当ウザかったな。だから」


バイクで山奥に連れて行き、そのまま放置して帰ってきたという。


「あいつそれでもデート気分だったからな。アタマおかしいだろ」

「今は精神病院にいるらしいスね」

「知らねえよ。思い出させんなよ、くそ気持ちワリィ」


なるほど。恐らくというか十中八九、大地っていうやつに憑いてる生霊なのだろうなとおれは思った。でもどうでもいい。


「女の生霊がついてるよ」なんて忠告したところで殴られるか、あるいは生霊そのものにやられるかしかなさそうだったので、ただ霊に見つからないようにするのが今のおれには精一杯だった。


ちらりと向かい側の席に座っているクロに視線を向けると、彼は何食わぬ顔でページをめくっていた。こいつもそういうのがわかるのだろうか。


隣の席から、ギャハハハという馬鹿笑いがする。


「うわあ! マジびっくりした! おいーやめろよ」

「ビビった? ビビった?」

「ハイお前地獄行きな。罰としてあのかわいい店員さんに声かけてこい。うまく言って俺んとこ連れて来いよ」

「うわー、キツー! あんなの好みなんスか、大地さん」


そんな会話が聞こえてくる。下劣な会話が耳に痛かった。

クロももう話しそうにないし出ようかな、とカバンを取り立ち上がろうとした時、視界の隅に人差し指があった。正確には、こちらを指をさされていた。

突然のことにびっくりして身が固まる。


「…えっ?」


誰の指かを確認するため目を向けた。高校生の集団のうちで一番体が大きく、日に焼けた背の高い大柄な男がおれを指さしていた。


「…やめた。こいつにするわ」


奴の背後で、黒髪を顔の前にたらし、ひん曲がった口からよだれを流している女が「だい…チィ」と上目遣いでこちらを見て笑っている。


「えっ。大地さんそいつ男じゃ…」


そいつの隣にいる、眼鏡をかけた坊主頭の高校生が半笑いで大地に言った。


「だから、こいつボコるんだよ。何か気に食わねえ。気に食わねえ目しやがって」


初対面の人間から敵意を向けられるのは、これが初めてではなかった。その人間本人というよりも、その後ろに憑いているものが敵意を向けてくることがほとんどであったが。


大地は立ち上がり、ポケットに手を突っ込むと目の前に立ちはだかっておれを見下ろした。右肩の上から女がナメクジのような動きでこちらに向かって両手を伸ばす。目は髪に隠れて見えないが、訴えかけるように、悲痛な叫びをあげているように真っ赤な口を大きく開き、そこから体液なのか血なのかわからないドロッとした赤い液体が流れて落ちた。おれは女を凝視してしまった。身体が動かない。


「なに…、なにが言いたいの…」


なんとか問いかける。


「ああ? だからお前の目が気に食わねえって言ってんの。ちょっと付き合えよ」


大地がアサヒの肩に手をかけようとした、その時だった。


頭の中で唸り声のようなものが聞こえ、大地の声はおろか周りの雑音が耳に入らなくなった。

「…犬?」そう思った次の瞬間には、目の前にいた女の頭だけがなくなっていた。こちらに伸ばす両腕はそのままに、何かにかじりとられたように首から上だけがすっかり消えている。


傷口からは先ほどのドロッとした液体と、気管のあたりなのだろうか、血の泡がゴボゴボと湧きだしているように見えた。

そしてそれをあざ笑うようかのような、しゃがれた声が頭の上の方で響いたかと思うと、今度こそ女は影も形もなく消えていた。


急激に周りのざわめきが戻ってくる。


「…まあいいや」


大地は手を引いた。


「おい、詰めろよ」


そう言うと、もとの席に戻っていく。目からは攻撃的な色が消えていた。

なんかよくわからないが良かった…。

今の、こいつにはわかったのかなとクロの方を見ると、彼はコーヒーのストローをくわえながらこちらを見ていた。おれと視線が合うと何故か目をそらす。


「ねえ、今の…」

「なに?」


興味なさ気に答え、クロは残りのコーヒーを飲み干すと机の上にあった雑誌をカバンにしまい始めた。


「良かったじゃん。大事なくて」


生霊に対してなのか、高校生に対してなのか、いまいちはっきりしない言葉であったが、知り合って間もない相手につっこんで聞くのも何なので「うん」とだけ答えた。


「アサヒ、明日も塾行く予定?」


彼はちらりとこちらを見ると、目線をまたすぐに下げて尋ねた。


「うん。授業料もう全部払ってあるって言うから、もったいないじゃん?」

「へえ、それじゃあまた明日な」


クロは席を立ち、二人分の会計を済ますとさっさと一人で店を出て行った。

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