第3話
そうして一人でいる事にも慣れ、アサヒとしては心理的負担を減らしたつもりだった。
だが翌週あたりからだろうか、彼はだんだんと講習に来ることが辛くなってきた。
念のため、毎日朝起きたら自分の体調をチェックして、よし大丈夫そうと思ってからリョータと一緒に来ることにしている。しかし朝、教室に入るまでは楽しくて今日は順調だと思っていても、このところ毎回気が付くと授業中に意識を失っている。
せっかく外に出られるようになり、前に比べると格段に楽しく過ごせているはずなのに。
まわりからは単に寝ているだけと思われているらしく、名前を呼ばれると意識が戻る。
だが自分ではいつ意識を失ったかも覚えていないし、覚めたあともしばらくは何も考えられない。それが毎日のように繰り返されるので、さすがに周囲の視線も気になりだした。
何となくわかったことは、教室に入ってしばらく経つと調子が悪くなるようだということ。
そして帰りは体がとても重い。
「コトヒラってさあ、あれ来なくても成績いいだろ?」
「暇つぶしじゃね?」
「いいですね天才は! いっつも寝てんのに何でテストだけ満点とかなわけよ?」
「…カンニングとか? リョータ何か知らないのかよ」
「いや、おれアサヒに勉強見てもらったから。あいつマジ先生より教えるの上手いし」
「何そのチート設定…」
「やーん惚れちゃうー!」
「ハイハイ、リョータくんはアサヒちゃんの事だけはかばうよねー?」
「いやいやマジだってば…」
アサヒが机に伏せていると、弱った心に刺さる会話が聞こえてきた。
この前先生にも同じようなことを疑われたところだ。この程度だったらカンニングなんてことしなくても、復習がてら流し聞くだけで十分だ。
講習に来ているのは成績のためではなくて、学生らしい生活をしたいと思ったから。
けれど例えそう彼らにそう説明したとしても、うまく通じそうもなかった。
そうこうするうちにだんだんと身体は不調を訴え出す。
しんどくなってきた。早く水飲まなくちゃ…もう動くの面倒だなあ。
涙目で空を見る。
綺麗だな。青が綺麗だ。空が好きだ。見てると落ち着く気がする。
夏のくっきりした白い雲が流れて形を変えていくのを見ていると、授業はあっという間に終わって休憩時間になっていた。
けれどアサヒは軽い過呼吸を起こしていて、机に突っ伏したまま朦朧としていた。
誰も彼に気付かない。
気にも留めない。
荒い息で小刻みに震える体。
ぽろぽろと涙が出てきた。…悪化する前に何とかしないと。
ふいに隣の空席に誰かが座る気配を感じて、アサヒは腕の隙間からそちらを見た。
どうやら遅れてきた生徒らしかった。ダメージジーンズが良く似合っていて、シンプルなシャツと凝った小物で少し大人っぽい男子。
横顔がかっこいい人だな…。
ん…何あれ? 彼の後ろに真っ黒で大きな影がぼんやりと見えた。幻覚?
「あのさ、調子悪いなら帰れば?」
夢幻の住人のような感覚で見ていたら、突然話しかけられて驚いた。
隣で澄ました顔をしているのは普通の男子生徒だ。
見間違いか…おれ相当ヤバいのかな、リョータのこと偉そうに言えないな。
黒い影と彼の台詞にびっくりして早すぎる呼吸が何度か止まった。
おかげで少し過呼吸がおさまる。
「あ、別に…こんなの平気だよ」
突っ伏していた体をゆるゆると起こし、適当に次の授業の準備をしはじめる。
何となく強がってしまった。息を整えるために水を飲む。
…あ、泣いてるのバレたかな、顔赤いかも…恥ずかしいな…。
前髪を伸ばして顔を隠そうとする。チャイムが鳴り、授業が始まったが彼は気に留めることなく話しかけてきた。
「な、おまえ、どこの中学?」
「…二中」
「え、おれもだけど。見たことねえなあ、おまえ」
偉そうな口調。自分に自信があるのは結構だが、おれにとってはあまり好きじゃない人種。
アサヒがムッとして黙っていると、
「おい。名前なんていうの?」
気にせず話しかけてくる。
俺に関わらないで欲しいんだ、と言おうとして彼の方を見た。
強く、形の良い目と視線がぶつかる。瞳は深遠な、不思議な色をしていた。
「あ、やっとこっち見た。俺は黒木。クロでいい。おまえの名前は?」
「…コトヒラ、アサヒ」
つられて答えてしまったが、会話が聞こえてしまったらしく、教師が大声で罵声を浴びせてきた。
「うるせえぞそこのグズ! 聞く気がないなら出てけ!」
明らかにアサヒに対しての怒号だ。
話しかけてきたのは隣のこいつなのに。アサヒはハァ…とため息をつく。
すると突然、バン! と大きな音がした。
驚いて隣を見ると、クロが机の上にカバンを叩きつけて教師を睨んでいる。
「行こうぜ。こんなつまんねえの聞く価値ねえよ」
そう言うと、彼はアサヒのカバンを勝手に取り上げて、荒っぽく教室を出て行った。
「待ってよ!」
カバンがないと大変だ。後を追いかけようとあわてて立ち上がる。
教師もリョータも教室の生徒もみな、ポカーンと口を開けておれたちを見送った。
塾を出てずんずんどこかへ歩いていくクロ。
「待てよ! どこ行くんだよ」
アサヒが呼び止めながらついて行くと、彼はある店の前で止まった。少しだけこちらを振り返り、そのまま中に入っていく。
何の変哲もない喫茶店だ。
あわてて追いかけると、彼は奥の方においてあるソファ席にどっかりと腰を下ろした。
「どういうつもりだよ。おれのカバン返せよ」
息苦しさでワイシャツの胸を押さえながらクロに近づくと、
「まあ怒るなよ。ちょっとは調子良くなったろ?」
と訳のわからないことを言う。
「は?」
そう言われれば確かに、いきなり走ったせいで息は上がっているが、明らかに塾にいた時よりも体が軽くなっていたことに気づいた。本当だ。クロは「自覚なしか」と眉をしかめて気だるげにおれにカバンを投げてよこした。
「もう帰んなよ」
「なんなんだよ…」
訳わかんない。落ちたカバンを拾って帰ろうとした。すると後ろから声をかけられた。
「お前さあ、食われすぎだよ。ヤバい匂い出てるぜ」
咄嗟に振り返る。
食われる? え? どういうこと? クロはおれをじっと見ていた。
彼の瞳孔が獲物を狙うように鋭く光ったように見えて、アサヒは怯んだ。
「…く、食われるって、何に、何をだよ」
恐る恐る尋ねる。
「お前がよく知ってる奴らからだよ。…それとも、まさかそれが良くてやめられないとか思ってるんじゃないよな?」
クロは口の端を妖しく上げて冷笑した。
「誰のこと…だよ」
アサヒはゴクリと唾を飲み込んだ。
もしかして、こいつ…おれの夢に出てくる奴、寝しなに襲ってくる黒いやつらのことを知っているんじゃないか。カバンを持つ手に力がこもり、喉が乾いてきた。
「あの…さ。それって、もしかして黒い影みたいな奴のこと? おれ、そんなつもり全くない…」
するとクロは意外そうな顔をする。
「黒い影? なんだそれ。俺が言ってるのはお前のまわりにいる人間たちの事だよ」
「え?」
まわりの人間がおれを? おれのどこを? アサヒはカバンを上に挙げて自分の身体を確認する。その様子を見て馬鹿にしたように笑うクロに、腹が立つ。
「意味わかんない。なんだよ、どういうことだよ」
クロの正面に座って彼の顔を見た。
彼はわかったよ、というように息を吐き説明してくれた。
「お前のまわりの人間が食ってるのは、お前のエネルギーのようなものだよ。よく他人の不幸は蜜の味とかあるじゃん。それだよ。あ、アイスコーヒーください」
お前も何か飲むか、と聞かれたのでアサヒは温かいレモンティーを注文した。彼は続ける。
「世の中にはな、他人のエネルギーを糧にする人間がいるんだ。上げればキリがないけど、それが親っていう場合もあるし、友人のフリをすることもある。イジメなんかもそうだな。本人に自覚はまるでない場合が多いけど、ストレス解消のはけ口とか言えば分かりやすいかな。悪口やら罵声やらを浴びせてエネルギーを吸い取るんだ。あとはスッキリ。
餓鬼みたいに乞うやつもいる。そいつらは大抵何もしない。自分で何もしないことを盾に、相手に喜ばせてもらおう、楽しませてもらおうってするんだ。都合が悪くなると『俺は何もしてない、相手が勝手にやったんだ』ってそういう奴はよく言う。そいつらは自覚もねえし、反省もしねえから自分でエネルギーを作り出すなんてできない。それはずっと続くし死ぬまで同じだ。馬鹿な奴ら」
一気に説明を終えると、クロは来たばかりのアイスコーヒーに口を付けた。
アサヒは頷きながらそれを聞いていた。なるほどと思った。これまで自分の人生であったことをうまく説明してくれているし、納得できる理由のように聞こえた。
「…じゃあ」
おれが話そうとすると、クロがさえぎる。
「そうだよ。お前はずっと食われ続けてるんだ。それに…」
そういう奴らを呼び寄せる匂いをおまえは放っている、と彼は言った。
「どうして?」
聞いたが、彼は無言だった。見るとクロは顔を背け、何かを聞いているような仕草をしている。何か聞こえるのか?レモンティーを飲みながらその様子を観察していると、遠くから風鈴の鳴るような音が聞こえた、気がした。
突如、クロは口を開く。
「ああ。黒い影か。黒い影のことは、今あんまりお前は知らなくていいよ」
「へ?」
さっき「なんだそれ」って言ってなかったか? いつ知ったんだよと思ったが、何となく黙っていた。しばらくお互いに無言な時間が流れる。
するとクロは今日話すことはもう終わったという風に、カバンから雑誌を取り出すとアサヒを無視して読み始めた。
おれはおれで、先ほどの説明をもう一度頭の中で反芻し、これまでの人生と照らし合わせてみて一つ一つに解決済印がついていくのを感じていた。
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