第4話
それからおれは学校帰りに毎日図書館へ通い、真面目にアサヒに勉強を見てもらっていた。
期末試験を間近に控えたある日のこと。いつものように自習コーナーへ行くと、アサヒと共に座っている女性がいた。
心の中で緊張が走る。
「こんにちは。涼太君」
アサヒの母が目を合わせてにっこりと挨拶をしてきた。
今日はきちんとした格好をしている。塾の先生みたいだ。
「あ、こんにちは。先日はお邪魔しました」
答えながら「なんでここに?」という疑問で頭がいっぱいだった。
心なしか、隣に座るアサヒの顔が強張っているように見える。
何の用だろう?おれ何かしたか?
その場につっ立ったまま、彼女が話しはじめるのを待った。
「ごめんなさいね、晨比君との勉強の邪魔しちゃって。実はね、涼太君がいつも晨比君と仲良くしてくれてるから、今度ぜひうちに遊びに来てもらおうと思って、晨比君にお願いして一緒に図書館に来たの。お料理の本を借りるために。どれにしようかしら、ねえ晨比君、どれが良いと思う? 涼太君は何が好きかしら。お母さん、やっぱり和食よりイタリアンかなと思うの」
突然、まくしたてるように喋りだす。おれが目の前にいるのに、自分の息子におれの好物を聞いている。なるほど机には和惣菜やイタリアンなどの料理本が並べてあった。
「リョータは多分どれでもいいと思うよ。それより勉強しなきゃなんないんだけど」
母親の顔を見ることなく、そっけなく答えるアサヒ。
「あら、そうよね、ごめんなさい。お邪魔しちゃったわ。涼太君、晨比君と一緒に食べたいもの考えておいてねえ。」
そう言って彼女はとても嬉しそうに本を片付けると、その本を脇に抱えてうきうきと去って行った。
おれはその後ろ姿を見ながらアサヒの隣の席につくと、カバンから勉強道具を取り出しつつ聞いてみた。
「おれ一回も返事してないんだけど。お前のかあちゃん、何か変わってるよな」
少し顔を上げたアサヒは顔をしかめながらも、なんとなく悲しそうな声で呟く。
「ああ、あの人さ。ちょっと頭がおかしいんだよね…」
おれはアサヒの口からそんな言葉が出てきたことにぎょっとして、あわててたしなめる。
「お前なあ、自分の母親をそんな風に言うもんじゃないぞ。まあいつもうるさくて、うざい気持ちもわかるけどな。自分の親ってそんなもんだよな。」
言いつつも、おれは尻の下に残る彼女のぬくもりを、若干気持ち悪いと感じてしまっていた。いやいや、そんなことより試験勉強。教科書とにらめっこだ。
ここのところアサヒに勉強をみてもらっているおかげで、試験範囲の半分くらいまでは理解ができつつある。
「うーん、難しいなあ」
おれが悩むと、
「そう?これはこうしたらわかりやすいよ」
サラサラっとアサヒがノートに書いて渡してくる。
「あーなるほどな。サンキュ」
そんなやりとりをしながら、しばらくノートにシャーペンを滑らせる音だけが聞こえていた。
「あ、雨だ」
アサヒが呟くのが聞こえ、顔を上げるとパラパラという雨音が図書館を包んでいた。徐々に激しくなる水音にどちらからともなく手を休め、お互いに見つめあった。
急に館内が冷え込みはじめる。いつのまにか室内には誰もおらず、おれたちだけが残っている。雨のせいか外は暗い。しかし蛍光灯の明かりだけは煌々と室内を照らしていた。人がいないのでよけいに静かだ。
時折湿気を含んだ机がギィときしんだ音を立てている。
「なんか、気味が悪いな…。いつもこんなに人がいない事なんてないのに」
「うん…もう帰ろうか」
アサヒは小さな声で同意すると、シャーペンや消しゴムを筆箱にしまい始めた。しかしすでに雨は台風のごとく勢いを増し、ゴウゴウという音とともに時折、稲光が窓を照らす。
壁にかけてあった時計を見ると、閉館まではまだ時間があった。
「おいアサヒ、雨けっこう激しいぜ。おれたち傘も持ってきてないしさ。もう少し待とうや。おれちょっと漫画見に行ってくるわ」
おれはそう言うと、かばんを席に置いたまま立ちあがった。
「待って、おれも行くよ」
一人で残されるのはやはり不安なのか、アサヒが後ろについてきた。
館内をぶらぶら歩いていると、まばらだが人がいて、なんだかほっとした。皆本を読んだり、探しまわったりしている。
アサヒは他の難しい本でも探しに行ったのだろう、おれは一人で長椅子に座り漫画を読んでいた。前に一度読んだことのある漫画だが、他にめぼしいものもない。
急にフッと目の前が暗くなった。
上を見上げると館内の電気が消えている。どうやら停電になったらしい。
静かな館内に豪雨の音だけが響いていた。
おれは漫画を閉じてじっと息をひそめた。
きっとすぐに点灯するか、図書館の職員が誘導してくれるのだろう。もう夜が近い。
しばらくそのまま待っていたが、なにかがおかしかった。
まったく何も起きないのだ。何も放送されず、あわただしく人が動く気配もない。
いや、そもそも誰かがいる気配すらない。
どうしたんだろう?そういえばさっき停電したときも、急に電気が消えたのに驚く声もなかった。まさか皆、あの短い時間でいっせいに帰っちゃったんじゃないだろうな。
不安になったおれは、誰かいないか探そうと立ち上がった。
そういえばアサヒは?
あいつも帰っちゃったのかな。まさかな、おれを置いて行かないよな。
だんだんと目が慣れて、ぼんやりと館内の様子が見えてきた。おれはその辺を歩いてまわることにした。
そして…奇妙な事に気付いた。
館内のあちらこちらに、人の形をした真っ黒いシルエットがぼうっと浮かんでいる。それらは本を探すように上を向いていたり、しゃがんでいたり、席につき本を読んでいたりする恰好のまま、まるで張り付いているかのように、そこから動かないのだ。
はじめは、普通に図書館の利用客だと思った。暗いからそう見えるんだろうなと思っていたのだが、よくよく考えるとおかしい。停電だというのにあわてている様子がない。それにこんな暗い中で本を探したり読んだりするなんて…
と思ったところで背筋に悪寒が走った。
そもそも全く動かないなんて明らかにおかしいじゃないか。それに、なんでこんなに静かなんだ?あいつら本当に人間なのか?おかしい、おかしいよな…
湧き上がる疑問とこれまで体験したことがない未知の恐怖で頭が混乱しはじめた。体内からなにかが熱く湧きあがり、口が叫びだすのを必死にこらえる。鳥肌が立ちひざが震え始め、全身がビリビリするほど緊張して、耳は生きものの音を探して助けを求めていた。
いや、そんなわけない、おばけなんているはずがない。
おれは何とかしゃがまないように堪え、目が回りそうになりながら必死に恐怖を打ち消した。
でも、じゃあ、この目の前にいる〈人たち〉は誰だろう。
怖い。なにか、自分と彼らとを隔てる柵が欲しい。安全なところに行きたい。逃げたい。どうしよう、このままでは気づかれてしまうかもしれない。
おれは涙目のまま手で口を押え、息を殺しながら後ずさり、その黒い人影に悟られないように、ゆっくりと静かにその場から離れようとした。
「ねえ。お腹が空いたでしょう…?」
突然肩越しに声をかけられる。
女か男かわからない、機械で合成したような低くてねっとりとした声だった。
ぎゃあああああああ‼
おれは心の中で死ぬほど叫んだ。
咄嗟に振り向こうとしたが、絶対に怖いものだと感じたおれは目をぎゅっと瞑り、とうとうその場にしゃがみこんでしまった。
…どのくらい経っただろうか、何も起きないし、もういいかなとそっと目を開けてみた。
きっと白昼夢でも見ていたのだろう。大丈夫、もう落ち着いた。
しゃがんだまま平常心を装い、ゆっくりと周りを見渡してみる。
相変わらず真っ暗だがまわりの様子は見える。
うわあ。…まださっきと同じ。
次の瞬間、今まで動いている様子が一切なかった黒い〈人たち〉がいきなり真っ赤な眼を見開き、こちらを一斉に振り向いた。
おれは完全に意識を失った。
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