第2話
おれは久しぶりに見るアサヒの笑顔にほだされて、やっと頬がゆるむのを感じた。
「いいよ。今、電話鳴ってたけど、出なくて良かったの?」
「ああ…いいんだ。出るなって言われてるし」
アサヒは何でそんなことを聞くの? というように首をかしげ、少しぶっきらぼうに言ったあと、おれの隣に座った。
「それより、今日はわざわざ来てくれてありがと」
再び、やわらかい声と笑顔に戻るアサヒ。
良かった、勝手に来たけど嫌がられてないみたいだ。いつも思うが、こいつの顔ってすげえ綺麗だよな。日に当たらないせいか病気のせいかわからないけど、肌は白いし、痩せていて線が細くパーツの配置もとても整っている。伏し目がちだが目もわりと大きくて…こいつが女子ならいいのにな、と思いつつ、ついついじいっと眺めてしまう。
「ははは。まあいいや。これ図書館の本。お前が好きそうだから借りてきてやったぜ。あと今日の勉強なんだけど…お前顔色悪いな。大丈夫か? 今日はやめとこうか?」
顔に見とれていたことを隠すため、わざと顔色の事を尋ねてみた。
いや、本当は心配だったんだ。本当に。
「え! いや、いいよ。勉強しよう? おれ大丈夫だから」
見ていたことはまったくばれていなかったが、アサヒは何故か泣きそうな顔で、リョータが出した筆箱を強く握っている。
「そうか? じゃあやろうぜ。それよりさ、今日学校で…」
おれが待ってましたと言わんばかりに上機嫌でペラペラと話し始めると、アサヒはニコニコと嬉しそうに笑って聞いている。おれの話術で心なしかアサヒの顔色が良くなってきたように見えて、おれはさらに調子に乗って話し続けた。心地いい空気がおれとアサヒを包んでいると思った。
「あっ。そういえばさ、アサヒって昔から絵が超うまいじゃん。今も描いてんの?」
おれが尋ねると、
「うん…描いてるよ。最近は、まんがも描けたらいいなと思って、少しづつ」
アサヒは恥ずかしそうに目を伏せた。
まんがと聞いてテンションが上がるおれ。
「えっまんが⁉ 見たいみたい! 読ませてよ」
「えー、リョータ絶対バカにするだろ? 嫌だよ」
「しないって! いや、やっぱアサヒすげえよ。将来大物漫画家になるんじゃね?」
べた褒めするおれに悪い気はしなかったのか、
「そう…かな? 仕方ないなー、じゃあちょっとだけね。取ってくるよ」
アサヒはもったいぶったように、けど得意そうにほほ笑んで立ち上がろうとした。
「あ、ねえ、ちょっと待って。お前の部屋って行ったらダメ?」
勢いで言ってみたが、言った瞬間アサヒの表情が曇り、明らかに戸惑った様子になった。ヤバいかな…と思いつつ、けど部屋行ってみたいな…どう言うかなと黙っていることにした。
「…うーん、じゃあちょっとだけね。内緒だから、静かにね。内緒だよ」
アサヒはそう言って人差し指を口にあてた。同じ男とは思えない白い手だ。
「わかったわかった。内緒だな。静かにね」
家に上げるのを拒んでいた母親だ。見つかったらどんなに怒られるのだろうと思うと気を引き締めてかかるべきだろう。音を立てないよう、薄暗く急な階段をゆっくりそうっと上がるおれたち。
階段を上がった正面の明かりとりの窓から、白い光が注ぎこみ、暗い階段の一部を照らしていた。日に当たったアサヒの肌はそれこそ透き通り、光との境界でぼうっとにじんでいるようにみえた。
あ、すげえ…天使。
おれはもしかして天国に案内されているんじゃないだろうか。
そんな気持ちになった。しかしそれはまったくの錯覚で、あっけなく階段は終わり、すぐ右手がアサヒの部屋だった。
なんの変哲もない木製のドアを静かに開け、中に入るとアサヒは振り返って小声で言った。
「どうぞ、入って」
「お邪魔します…」
おれも小声で答える。一番に目についたのは、狭い四畳半の部屋を四分の一くらい占拠する、古く黒いピアノだった。驚いて尋ねた。
「え、お前ピアノなんか弾くの?」
「ううん。置き場がないからってこの部屋に置いてあるの。前に住んでた人のものだって。弾いても出ない音が何個もあるんだ。」
おれの頭の中に『パパからもらったクラリネット、弾いても出ない音~が~ある♪』という歌詞が流れ出した。オーパッパラパ―オーパッパラパー…じゃあ、捨てればいいのに。どうやらただの物置になっているようだし。ピアノの上には埃のかぶったフランス人形やオルゴール人形が置いてあるのだ。
「これ、アサヒの趣味なの?」
念のため尋ねると、アサヒは首をふる。
「まさか。わかんないけど置いてあるんだ」
「だよなあ…」
部屋の隅にある、アサヒが勉強用に使っているのだろうと思われる古い仕事机の上には、一世代か二世代か古いパソコンが置いてある。
引き出しには『大日本帝国万歳』やら日本の古い国旗、『銀河鉄道999』のステッカーが貼ってあるのだが、はがそうとしてはがれなかったのか一部が白くなって中途半端に残っていた。
「お前、こんなの好きだったっけ?」
「違うけど…この机、親が近くのゴミ捨て場から拾って来たんだ。使いづらいからあんまり使わないけどね」
アサヒは事もなげに言う。
オイオイ…勉強机も買ってもらえないのかよ。こいつ成績は学年上位だぞ。
アサヒの母親が家に誰もあげたくない理由がわかったような気がした。壁には、窓がある面以外の三面すべてに有名らしい絵画のポスターが貼ってあった。芸術に疎いおれは誰が描いた何という作品なのか知らないが、しかしどれも暗い印象の絵だったのであまりそちらを見ないようにした。
どう見てもこの部屋は十四歳の男の部屋じゃない。むしろツッコミどころしかない。
アサヒが自分で使っていそうなものは、部屋のはじに置かれた小さな本棚と、ピアノの下に積まれた少年ジャンプくらいか。部屋の真ん中には先ほどまでアサヒが寝ていたであろう布団が敷かれており、それだけは真新しく綺麗であった。
おれがそのちぐはぐな部屋の様子に茫然としているとアサヒが話しかけてきた。
「部屋狭いけど、適当にその辺に座ってくれる? 今マンガ出すからさ」
無言で空いているスペースに腰を下ろすと、ほっとした様子のアサヒは机の引き出しの中から紙の束を取り出し、しばらくの間眺めていた。なかなかおれに見せようとしない。
「何やってんだよ。見せてくれよ」
せっつくと、アサヒはちらりとこちらを見ながら、もったいぶって原稿を手渡してきた。
「うーん…恥ずかしいけど、リョータだから見せてあげる。誰にも言うなよ。」
そのまんがは、死んでしまった浮かばれない人間を三途の川の向こうへと送る浄霊師が主人公で、ギャグやシリアス、恋愛もある少年漫画だった。
おれが思っていたよりもだいぶん面白く、夢中になって十五ページほどの話を一気に読み終えると、自然と感嘆のため息が出た。
「はあ…やっぱりお前ってすげえな。世界観も面白いし、全然おれじゃ思いつかない展開で話が進んでて。もっと読みてー。もっとないのか? つづきは?」
「もう少しで次の話ができあがるんだ。できたら見せてあげるよ」
アサヒは頬を少し赤らめて照れながらも嬉しそうに微笑んだ。その時だ。
ふたたび家のどこからか電話の音が聞こえてきた。
今回も母親は出ないのだろうか?
何となくおれとアサヒは話すのをやめて耳をすませる。シーンとした家の中でプルルルル…という電話の鳴り響く音だけがする。心なしか、段々とその音が大きくなっている様な気がした。
こちらにどんどん近寄ってくる? …ありえないだろ。
おれは何故だか緊張して、心の中で早く鳴りやんでほしいと願っていた。こんなに長い間かけ続けるなんて、大事な用事かもしれないのに何で母親は出ないのだろう。
その状態が何分間続いただろうか。やがてプル… と電話の音が途切れると、ふっと空気が軽くなったような気がした。
突然、部屋の外でバタンと扉の開く音がした。おれたちは急な物音に心底驚き体が勝手にビクッと震えた。どうやら、アサヒの母親が部屋から出てきたようだ。階段を下りるトン、トン、トンという足音がする。二人は息をひそめた。階下から子供の声がしないのを不審に思ったのだろうか。それとも、ただ単に何かを取りに行ったのだろうか。足音が階段の下でそのまま止まった。
おれ怒られるかな。それともアサヒが怒られるかな…とドキドキした。
一階のどこかの扉を開ける音がし、次に、バァーンッっと、それを力まかせに閉じる大きな音と振動がした。おれは驚いて体が固くなってしまう。アサヒの方を見ると彼の顔色はひどく青ざめていて、心なしか震えているようだった。そうっと口を開く。
「なあ…ごめん。もうおれ帰った方がいいよな」
尋ねると、アサヒはうつむきながら答えた。
「うん…ごめんね」
おれは部屋に上がり込んでしまったのを、なぜだかひどく後悔していた。
「まんが面白かったよ、ありがとな」
原稿をアサヒに返すと、おれは来たときと同じようにそっと部屋の扉を開けた。
「お…送っていくよ」
今にも倒れそうなほどフラフラしているくせに、どうしても送ると聞かないので再び二人で静かに階段を下りた。
下につくとわざと大きな声で、
「お邪魔しました! じゃあな、アサヒ! また図書館で会おうぜ!」
とアサヒの母親に聞こえるように声を張り上げた。アサヒもその声につられたのか、明るく返す。
「うん! また図書館でね」
内心、おれはもうこの家には二度と来たくないと思っていた。何だかわからないが、この家は恐ろしい。誰もいないと思うくらいとても静かなくせに、大勢の何かに見張られているような感覚。おれが靴をつっかけて逃げるように玄関のドアをあけて外へ出ようとすると、何かにかばんを引っ張られた。
「おわ! 何だ⁉」
驚いて振り向くと、アサヒがうつむいておれのかばんのヒモを握っていた。
びっくりさせんなよ! 勢いで怒ろうとすると、アサヒが泣きそうな声でおれの顔を見た。
「あの、また図書館で会おうね…? 約束だよ」
目が涙で潤んでいる。
おれは先ほどとは別の意味で心臓がドキッとした。
男相手にこんなことは言いたくないが、可愛いぞ。
自分の性癖が本当にノーマルでいいのかどうか、疑うべきだろうかと思ったが今はそのことじゃない。アサヒが何かを不安に思っているようなので、しょうがねえなあとため息をついた。
「…わかったよ。約束な。じゃあまた明日な」
その答えに安堵したアサヒは掴んでいたヒモを離してくれた。
玄関先でバイバイと手をふる彼を、チクショウ可愛いな…と思いながら帰路についた。
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