暗転

母の芳子の勤め先の商社が年明けから三月一杯まで、いわゆる繁忙期で多忙なことは一真もよく知っている。

毎年、残業だ何だと終電ギリギリだったり、時には深夜にタクシーで帰宅も珍しくはない。

(今日も遅いんだろうな)とぼんやり思いつつも、一真はようやく高校生としての自分のこれから、を想像できるようになったことは正直嬉しかった。

「バンド、組めるようなクラスメートがいるかな?」

「高校の段階で電子工学のどこら辺までを履修できるんだろう?」

「まさか、バイクの免許を禁じてやしないだろうなぁ」

「でも、あの附属高、制服は結構カッコいいんだよな」

さまざまなことを考えつつ、冷蔵庫の中の物を適当にありあわせて一人で夕飯を済ませた一真は、自室のクローゼットの中に押し込んであった茶色いソフトケースから久しぶりにベース・ギターを取り出してみた。

この国産のベースを入手してから一年ほど経っているが、一真が「一曲通して」弾ける曲はまだ数曲程度だ。

音楽雑誌の簡単なガイドや譜面の説明などをアテにして弾いていっても、どうしても聞こえてくる音とは違う箇所が出てくるのが不思議で、一真はもう「とにかく何度も聞いてレコードと同じように弾く」という自分勝手な練習方法を編み出していたのだが、この方法はとにかく、時間がかかるのが難点である。

引き出しから音叉を取り出し、コツン、キィーーン という音をこめかみに当てて、ベースの三弦の音を出してチューニングを整える。

(そんなに狂っちゃあいないな)と感じ取った一真は他の弦も関連させてチューニングを終え、

「どうしようかな、UFOの曲を覚えたいんだよな」と呟き、ウォークマンからカセットを出そうと手に取った時だった。

ガチャリ、と玄関の鍵が回る音がしたのだ。

(あれ?まさか 親父が帰ってきたんじゃ)と、すわっと立ち上がり、ベースとウォークマンを持ったまま自室のドアを開けると、疲れた顔をした母親の芳子が帰宅していた。

「おかえり、母さん、早いんじゃない?」

「カズ、夕飯はどうしたの?」

「うん、残ってたオカズと、インスタントのスープとでご飯食べたよ、ご飯はまだ充分ある」

「そう、早く済ませたのね」

「母さん、まだ食べてないの?」

「そうね、軽く食べるわ、ちょっと着替えてくる」

「うん・・・」

高校の事をちゃんと言わなくちゃ、せっかく早く帰ってきたんだもの、と一真はしっかりと思い直し、ベースをベッドの上にそっと寝かせて置いて、また居間に戻った。


多少はラフな格好をして居間に戻ってきた芳子に、一真はすぐに切り出した。

「母さん、高校の事なんだけどさ」

「ええ、聞いたじゃないの、両方ダメだったんでしょ、諦めて都立の工業高校とか・・・」

「いや、学校に電話があったんだ、工大附属の方から」

「はぁ? 電話って、何の?」

「補欠合格、という扱いなんだって。その順位で言うと一位、と」

「補欠って、普通に合格した人が入学を辞退したら、繰り上がる、ってこと?」

「そうだよ、で、工大付属なら毎年10名くらいは辞退者が出るから、間違いなく進学できるだろう、って」

「先生がそう言ったの?」

「うん、教頭先生や学年主任も間違いない、って言ってくれて、担任の・・・」

「・・・ダメよ」芳子が鋭く遮った。

「えっ?」

「そんな・・・私立には、無理なのよ、行けないの!」

いつの間にか芳子はダイニングテーブルの上で握った拳を震わせている。

「なんだよそれ、どういう・・こと?」

「あのね、一真」 ここで芳子がゴクリ、と唾を飲む音が聞こえた。

「今ね、ウチには、お金が無いのよ、そんなお金は」

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