第8話

 「すぐに」という気持ちだけで航空券を購入し、翌日、日本へと僕は飛び立った。


 マネージャーにもメンバーにも告げず、気持ちだけで日本へ来るのは二回目。あの日も今日も「早く彼女に会いたい」という同じ気持ちなのに、そこにある焦りは全く別の意味を持っているようだった。


 それは、花歩に会える約束が今ここにないからかもしれない。僕が一方的に来て、一方的に彼女を探している。黄色いバラが咲き乱れるバラのトンネルを歩く後ろ姿を。紫陽花が華麗に彩る小路を歩く華奢な背中を。人混みの中、小さく消えていく、その後を。この十年間当てもなく、ただただ、あの日の花歩を思い焦がれていたときと同じように。


 一歩踏み入れた日本は、梅雨も夏もあっという間に過ぎ、秋がもうすぐそこまでやって来ていた。ミルクティー色のロングカーディガンを羽織り直し、黒のキャップをあの日と同じように目深に被る。


 手に持っていたスマホを見れば、母さんから一件メッセージが入っていた。僕が飛行機に搭乗する直前に送ったものに対する返信だった。調べてもらった花歩の実家の住所。「もう誰も住まれていないと思うけれど。何のために必要なの?」と書かれたそれには返信をせず、リュックの中にスマホを捻じ込んだ。


 教えてもらった住所を頼りに、空港近くでタクシーを捕まえる。二十分ほど車に揺られていると、景色は徐々に商業ビルの群れから住宅街へと変わっていった。


 「この辺りのはずですけど」とドライバーに言われ、お金を払い降りる。タクシーが去っていくのを見送って、辺りを見回した。


 「モリシタ……モリシタ……」


 昨日まで知らなかった花歩の苗字を口にするのは、とても不思議な感覚だった。たったそれだけなのに、花歩という存在が、僕の中で一層、リアリティを増したような心地がした。


 一件一件、玄関先や門前についた表札を見ていく。タクシーで近くまで来ているだろうから、おそらく探し出すのにはそれほど時間はかからないだろう。けれど、その時間さえも惜しく感じてしまう。


「あ、あった」


 思わず声が出た。十分もしない内に見つけた、ローマ字で『Morishita』と彫られた表札。黒いアンティーク調の門は、僕の記憶よりも少し錆が目立つようになっていたけれど、ここだと確かに思い出せる。


 門に手を掛ける。カシャンと音を鳴らしただけで、南京錠がついたチェーンのせいで開くことはなかった。見える限り、家中の雨戸は閉まっている。しん、と静まるそこは、ここが空き家であると訴えているようだった。


 「それは、そうだよな」


 花歩の両親は亡くなって、花歩も引き取られたと言っていたし。花歩がいないことは、ハッキリと分かっていたはず。でも、自分にはここしか当てがなかった。


 門に掛けていた手を離す。他に彼女がいそうな場所はどこだ。働いている場所も知らなければ、今、どんな生活をしているのかも知らない。僕は、彼女のことを何も知らなかったのだと実感させられただけのように思えた。


 溜息が口から溢れる。もう何日も同じような溜息ばかり吐いている。ゲームにログインしてみても、もう何日もログインしていない彼女の記録が見えるだけ。送ったメッセージにも未だに既読が付く気配はない。


 「花歩、僕は今、君の国にいるんだよ」


 同じ国にいて、君が話す言葉を覚えても。約束がないだけで、こんなにも会えなくなる。彼女に再会するまでは、もう二度と会えないだろうって思っていたくらいなのに。これはただ、僕が欲深くなってしまっただけなのか。僕がずっと焦がれていた『花歩』にやっと巡り合えたから執着しているだけなのか。


 いいや、それは、違う。僕は、花歩が『Kaho』でも『花歩』でも、どちらでも……。


 コツン、と足元に何かが当たる。溜息を吐いて項垂れたままだった僕は、そのまま視線を動かした。オレンジが僕の足に当たって止まっている。


 「ああ……ごめんね。買い物袋から零れてしまって」


 少し掠れた、年老いた男性の声がする。顔を上げそちらを振り向けば、重そうな買い物袋を持った、グレイヘアがよく似合う男性が、覚束ない足取りで杖をついていた。薄手のブラウンのカーディガンを着たその姿には、美しく年を重ねた品があるように思えた。


 いえ、と彼の謝罪を受け入れながら、転がったオレンジを拾う。ほんのりと甘酸っぱい香りが僕の鼻をくすぐった。


 僕の近くまで辿り着いたおじいさんは、お礼を言い、受け取ったオレンジを再び袋の中へ入れる。


「重そうですね」

「いいや、これくらい。何にもせんと、衰えてしまうから」


はは、と笑うその声は優しい。おじいさんはふと僕を見てから、花歩の実家の方へと目をやった。僕もつられてその視線を追う。


「もうずっと、ここには誰も住んでいないのですか?」

「ああ、そうだね。朽ちないように管理はしているんだけれどね」


誰かに貸したりもないね、と言ったあとに、「そうだ」とおじいさんが続けるから、僕はまたおじいさんへと視線を戻した。


「私の家は、すぐそこなんだけどね。みかんを拾ってくれたお礼をしようね」


 ついておいで、とおじいさんはニッコリと微笑む。穏やかな雰囲気に、なぜか懐かしい気持ちが過る。


「あ、荷物。僕に持たせてください」


その不思議な気持ちに背中を押されるように、僕はおじいさんの手から荷物を攫い、隣に並ぶ。おじいさんはまた「これくらい、私でもまだまだ持てるよ」とおかしそうに笑った。

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