第7話
「私のことは忘れて」
「あなたの知ってる私はいないから」
「ごめんなさい」
「もう会えない」
「二度と会わない」
涙を目にいっぱい溜めた彼女はそう言って、僕に背を向けて人混みの中へ消えていった。
イジュンに言われた通り、何か手掛かりはないかとあの日のことを思い出してみる。
「僕の知ってる花歩はいないってどういう意味?」
確かに花歩はそう言った。十年前に日本で会ったときの花歩とは違うという意味なのは分かる。十年も経てば、良くも悪くも人は変わっていく。変わってしまったから、自分のことは忘れてほしい? 変わってしまった理由はなに? 僕と再会することで、一体どんな不利益が花歩に降りかかるのだろう。十年前のあの日は、花歩にとって、どうしても忘れ去ってしまいたい時間だったのだろうか。
ソファーに沈み込むように体を預ける。深い溜息はドアが開く音にかき消された。
「あら、ジアン。帰っていたの?」
仕事を終えて帰ってきたのだろう。母さんは、首元から菫色をした薄いスカーフを外しながら驚いたように僕を見た。僕が実家についたときには、まだ昼下がりの明るさがあったのに、窓の外はすっかりと夕暮れに染まっている。
「撮影が早く終わったから、たまには実家に顔を出そうかと思って」
「そう。忙しいようだから、休めるときにしっかり休みなさい」
「ありがとう。母さんたちは? しばらくこっちにいるの?」
「ええ。二週間くらいはいる予定よ」
両親は変わらず、仕事で海外を飛び回っている。忙しそうだねと返せば、これが生きがいだからと笑うのは母さんらしい。
「まとまった休みには、よくあなたも着いてきていたわね」
キッチンにいる家政婦にコーヒーを淹れてもらうようお願いしたあとに、母さんは「ジアンもすっかり大人になってしまって」と目を細めた。
そうだ、と気付く。「あの、」とソファーにだらしなく座っていた姿勢を忙しなく正した僕に、母さんは丸くした目を瞬かせてから首を傾げた。
「母さん、十年前に日本に行ったときのこと覚えてる? 長い連休のときにさ」
「ああ……覚えているわよ。懐かしいわ」
「母さんたちが一緒に仕事していたあの人たちって、まだ連絡取り合ってるの?」
「うーん……」と母さんが唸る。その声と表情にはハッキリと哀愁が纏っていた。
何かを言い淀む母さんの視線が上がる。「ただいま」と言う声と共に、またリビングの扉が開く。「あなた」と母さんが静かに助けを求めるように、帰って来たばかりの父さんに声を掛けた。
「日本のモリシタさんって、もう……」
「ああ……亡くなってしまったよ。とても優しい人たちだったから、残念だ」
「 亡くなった? いつ、」
「十年前、私たちが日本から帰って、二ヶ月くらい後だったんじゃないかしら。仕事でご一緒したばっかりだったのにって驚いたのよ」
「車で移動中の事故だったそうだ」と父さんが僕の隣に腰を下ろしながら言う。
「……確か、僕と同い年の娘がいたよね」
「ええ。カホちゃん。今、どうされているのかしらね。近くに住むお祖母様とお祖父様に引き取られたって風の噂では聞いたけれど」
元気にされているといいのだけれど、と母さんが静かに目を伏せた。
僕の瞼の裏には、バラのトンネルを駆け抜け、人混みに消えていく花歩の背中がある。走り去っていく彼女が一度目元を擦っていた記憶が蘇った。
「ごめん、僕、もう行かないと」
居ても立っても居られなくなって立ち上がる。花歩は二度と会わないと言ったけれど。僕はやっぱり、もう一度、花歩に会わなくちゃならない。彼女はこの十年間、悲しみにのまれてしまいそうだったんじゃないか。こんなの、もしかしたら勘違いかもしれないけれど。でも、僕は花歩を、このまま思い出として終わらせることなんて出来るわけない。
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