第6話

 ひらひら、と僕の顔の前で掌を振るイジュンの手を払う。


 「起きてた」

「ずっと起きてる」

「どうしたんですか? 今日、随分大人しいですけど」


コーヒーでも飲みますか?と首を傾げるイジュンに僕は首を横に振る。イジュンは「そう」と、納得がいっていないときのように少し唇を尖らせた表情で頷くと、「僕は飲みますよ」と言ってケータリングコーナーへと歩いていった。その背中を見送って溜息を吐く。


 あれから一週間。僕が花歩に送ったメッセージには既読が付かず、ゲームにもログインされていない。もう一度話がしたい、とメッセージを書いては、送信ボタンを押せず、何度も何度も消している。


 「本当に、二度と会わないつもり……?」


 こんなことになるなら、花歩と気付いても言わなければよかったと後悔してしまう。僕がジアンであるということも言わなければよかった。


 目を閉じれば、白いベンチで笑うあの頃の花歩が思い浮かぶ。そのときよりも少し大人びた彼女は、今にも零れ落ちそうなほど涙をいっぱい溜めて、僕の手を振り払った。


 お互いに気付かず、Kahoとロアとして生きていけば、今も彼女は僕に笑いかけてくれていたのだろうか。十年前の思い出を特別だと思っていたのは、僕だけだったのか。


 もう一度、肺いっぱいに溜まった深い溜息を吐いたときだ。


 「ジアン! ジアン、いる?」


 控室の扉が乱暴に開けられる。マネージャーは僕の姿を見つけると、茶色い髪を振り乱しながら、鬼のような形相で詰め寄った。


 「これ、一体どういうこと?」


 目の前に突き出されるタブレットの画面。ネットニュースが開かれたそこには、植物園で花歩の背中に手を伸ばす僕の姿が映っていた。


 「わぁ、兄さん。これ……」


いつの間にか僕の隣にやって来ていたイジュンが口元を隠すように手を当てて、僕を見る。


 「どうするつもりなの? 誰なの、この女の子は。一体どういう関係?」


あれほどスキャンダルには気を付けなさいと言ったのに、とマネージャーの声はどんどん鋭く、高くなっていく。何か答えなければ、と「ああ……」と吐いた声は、自分でも驚くくらい乾いていて、おかしかった。

 

「何がおかしいの、ジアン」

「マネージャーが心配するようなこと、何にもないですよ。僕はもう、彼女には二度と会わないので」


 きっと会ってくれないから。そう続けるのはやめて、自分を嘲笑うように言う。恋人ではないの?と、未だ鋭い目つきのまま僕を見る彼女に「違います」と頷く。


「昔の友人で。ただ、なんか……僕にはもう会いたくないみたいだから」


会いません、ともう一度繰り返せば、彼女はやっとホッとしたように胸を撫で下ろした。


「それならいいのだけれど。誤解されるような行動は、今後慎みなさいね。あとはこっちで何とかしておくから」

「はい」


すみません、お願いします。と頭を下げれば、マネージャーは乱れた髪を直して、控室を慌ただしく去っていく。来た時よりも、その足取りはどこか軽やかに見えた。


 マネージャーを見送って、少しの間が空く。それを計ったように、イジュンが静かに口を開いた。


「泣いてた」

「え?」

「あの人。写真が小さくて、ちゃんとは分からなかったけど、たぶん」

「……」

「何があったんですか?」


 嫌われるようなことしたんですか、とイジュンが言う。僕はそれに首を横に振りたかったけれど、それも出来なかった。


「分からない。それまで、ずっと楽しく話してた。ただ……僕が、彼女が誰なのか気付いてしまって、」


 たぶん、それがダメだった。僕が花歩だって気付いてしまったから。僕が、ジアンだと明かしてしまったから。いつの間にか、僕たちは再会を喜べる関係ではなくなってしまった。


「あの人、兄さんがずっと忘れられずにいた人ですよね」

「鋭いんだな、イジュンは」

「さすがに誰だって何となく分かるんじゃないんですか?」


まぁ、そんなことは良いんですよ、とイジュンが続ける。


「十年も忘れられなかった彼女を、こんなに簡単に手放して良いんですか?」

「そんなこと言ったって、」

「彼女とどんな話をしたんですか? もしかしたら、何か理由が分かるかもしれない。誰か分かったからって、会いたくないって一方的に泣く人なんていますか?」


 いいんですか、このままで。と言うイジュンの声は強い。


「このまま、本当に色褪せた記憶になってしまっても良いんですか?」


 花歩の笑顔が瞼の裏に浮かぶ。バラのトンネルの中、腕を広げてくるくると回る彼女は、とても穏やかで楽しそうだった。

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