第5話

 仕事帰りの退屈さを解消するために彼女はゲームを始めたのだと言っていた。ゲームが特別好きだったわけでも、得意なわけでもない。でも始めてみたら面白くてと彼女は笑っていた。


 ゲーム内で知り合ってから随分と時間が経つのに知らなかった互いのそんな些細な話をしながら過ごす時間は、本当にあっという間だった。


 詰め込まれたスケジュールの隙を見つけてやって来た僕にはあまり時間がなくて、一緒に過ごせたのはたったの一日だった。翌日の午前中には帰国しなければいけなかったし、彼女も忙しい中時間を割いていてくれていたようで、「空港まで見送りにいけなくてごめん」と別れ際に眉を下げながら僕に言った。


 「無事に帰国した?」と送られてきたメッセージに口元が自然と緩む。帰国後、空港から直行でスタジオに入った疲れなんてあっという間に飛んでいくような心地になった。控室のソファーで崩れていた自分の姿勢を正し、彼女への返信を打ち込む。「何事もなく到着」と打ち終えて送信ボタンを押すと同時に視線を感じて顔を上げた。近くに立っていたイジュンが僕を不思議そうな目で見下ろしていた。


 「何か良いことあったんですか?」

「どうして?」

「ずっと口角が上がってるから」


ニコニコーって。と、イジュンが指で彼自身の口角をクイッと上げてみせる。僕は慌てて自分の口元を引き締め直した。顔に出て良いことは何もないと、僕は彼の次の言葉でそれを実感するのだ。


 「あ、もしかして。見つかったんですか?」

「なにを、」

「忘れられない庭園の彼女」


近くにいるマネージャーに聞こえないようイジュンが声を顰め、僕の耳元で囁く。驚いて彼を見れば、楽しそうにその目が細められていた。


「……からかってるのか?」

「からかってないですよ。ただ、兄さんの恋は応援したいなって」

「恋とか、そんなんじゃなくて、」

「え、そうなんですか?」


「なんだ、つまらない」と言いながらも、イジュンの目は僕を信じていないことがよく分かる。「やっぱりからかっているだろう」と眉を大げさにしかめて返せば、彼はようやく「ごめんなさい」と頭を下げた。


 イジュンがスタイリストに呼ばれている。これ以上こいつと話をしていると、僕自身も理解していないボロが出てしまいそうで、「早く行け」と手で追い払う仕草をしてみせる。


 「はいはい。僕は退散します」

「しばらく戻ってこなくていいから」

「兄さん。さすがにそれはひどくないですか?」


ケラケラとイジュンが笑う。スタイルストがもう一度、なかなかやって来ないイジュンの名前を呼ぶ。彼はそれに返事をした後に、何かを思い出したように僕を振り返った。


「さっき歌ってた鼻歌、なんてタイトルですか? 兄さん、よく歌ってるけど、聞いたことなくて」


 「調べても出て来ないんですよね」とイジュンが悩ましげに首を傾げる。歌詞とか分かれば、と彼は言ったけれど、僕は「秘密」と笑って返すだけにした。


記憶の中にある、断片的で、おぼろげなメロディーライン。花歩がなんて言って歌っていたのかも覚えていない僕には答えようもないことだった。ただ、花歩が歌っていたというのは、僕だけのものにしておきたくて、僕はイジュンにそう答えた。


「もったいぶって」と笑いながら去っていくイジュンの背中を見送ってから溜息を吐く。鼻歌も無意識で歌っていたと彼の言葉で気付いて、何だか恥ずかしくなった。




 Kahoが僕の国へやって来るのは、想像していたよりも随分と早かった。僕たちは何を急いでいるのだろうね、と航空券を買ったという彼女と通話して笑い合った。


 空港まで迎えに行き、彼女がやって来るのを到着ロビーで待つ。ぞろぞろと列をなす人の中にKahoの姿を探していれば、大きく手を振る彼女を見つけた。


 「お疲れ様。疲れたでしょ」

「アンニョンハセヨー」


ぎこちない発音で、彼女はハニかみ、少し頬を赤く染めながら言う。「上手」と彼女がいつも褒めてくれるように返せば、「これくらいしか覚えられなかった」と残念そうに言った。


 「充分だよ」

「ロアはすごいね。日本語、覚えるの大変だったでしょ?」

「うーん。まぁ、少しは。でも、趣味みたいなものだから」

「私ももっと勉強しよう」

「僕でよければ教えるよ」

「本当? 嬉しい」


 立ち話も何だし、とようやく僕は彼女の荷物を指差す。「荷物、どうする?」と問いかければ、彼女は「ロッカーに預けたい」と辺りを見回した。


 「ホテルに先に行かなくて大丈夫?」

「空港の近くに宿取ったから。先に遊んで、それからまた荷物を取りにくるよ」


チェックインには時間が早いし、と言う彼女に頷き返す。遠慮する彼女から半ば強引にスーツケースをさらい取ってロッカーを探した。


 通路の壁に貼られた長いポスターは、大々的に押し出すように僕が所属するグループを主張していた。今日も被って来た黒いキャップを深く被り直す。Kahoは興味深そうにそれを見ながら歩いていた。どうか僕だと気付きませんようにと焦り、願いながら、見つけたエントランス近くの大型ロッカーに彼女の荷物を入れた。


 「これから行くところ、僕が独断で決めた場所で大丈夫?」

「もちろん」

「植物は好き?」

「お花とか? うん、好きだよ」

「それなら良かった。楽しんでもらえたら良いのだけれど」


「行こう」と彼女の先を歩くように一歩踏み出す。浮足立ってしまっているのが自分でも分かる。そんな僕にKahoは「楽しみ」と、パッと表情を明るくさせた。この笑顔が、僕はとても好きだった。


 タクシーに揺られ到着した植物園。チケット売り場でチケットを購入すると、音声ガイド用のレシーバーも渡された。日本語はある? とKahoが僕の手元を覗き込みながら言う。


 僕は案内が書かれたポップを見て「ないみたい」と答えた。韓国語と英語だけ、と指で文字をなぞりながら言えば、「じゃあ、ロアが私に説明してね」とイタズラっ子な猫のような目をする。


 「ああ、プレッシャーだー……」と冗談だと分かるように演技っぽく胸に手を当て一歩後退る。Kahoはそんな僕を見て楽しそうに肩を揺らして、「冗談だよ」と笑った。


 「さぁ、行こう」と今度はKahoが僕の前を歩く。「今日は僕が案内するのに、」と言いかけて、楽しそうな彼女を見て満たされる胸に、その言葉は飲み込むことにした。


 淡い黄色のバラから徐々に赤く色付いていくバラのトンネル。幻想的だ、とKahoは吐息を吐き出すように言った。綺麗だと彼女は時折手を伸ばしながら、その中を歩く。


 ひらりと揺れる、パステルブルーの彼女の薄手の羽織。そこから覗く白い腕に目が留まった。


 十年前の記憶が僕の目に重なって見える。くるくると踊るように両手を広げて歩く彼女。少女。肩くらいまで伸ばされた髪が柔らかく靡いている。


 幻聴なのかと思った。風に乗って聞こえてくる鼻歌が。僕の記憶の中で、ただ流れているのかと。少し掠れた、涼やかな声が。あの日の記憶と同じ声が、音色が。確かに、今、目の前にいる彼女から聞こえてくる。


 ふわふわと風に流されるように飛ぶ蝶を目で追い、振り向いたKahoの腕を掴まずにはいられなかった。


 「うわ、どうしたの? びっくりした」

「花歩、」


一瞬、彼女の目に動揺の色がついたのが分かった。え、と小さな声が、薄桃色のリップが塗られた唇から漏れる。


 「やっと、君に会えた」


黒のキャップを外す。誰かの小さな悲鳴と共に呟かれた「ジアン」という声と合わせるように、彼女の目が大きく見開かれた。その瞳に映る僕は、ひどく焦ったような顔をしている。けれど、そんなことを気にしていられる余裕はない。


「花歩、僕のこと覚えている? 十年前、日本で、」

「やめて」


僕の言葉を遮るように、彼女は僕の腕を振り払う。見開かれていた目には、今にも零れてしまいそうなくらい涙が溜まっていた。彼女の呼吸が荒い。嘆くように何かを小さな声で呟いて、彼女は頭を抱えるように髪を掻き上げる。


「お願い、聞きたくないの。やめて、」

「花歩、」

「呼ばないで、私のこと」


どうして、と手を伸ばす。彼女は首を左右に振りながら、僕と距離を取るように後退りをした。


「私のことは忘れて。もう、あなたの知ってる私はいないから」


お願い、と彼女は何度も懇願するように、僕に言い聞かせるように、それでいて自分にも言い聞かせているように口にした。


「ごめんなさい、ジアン」

「なにを、謝っているの……?」

「ごめんなさい。もう会えない。二度と、あなたには会わない」


ごめんなさい、と花歩は僕を振り切るように走り出す。狭いトンネルの中、人混みを掻き分けて、彼女は消えていく。待って、と伸ばした手は何も掴めずに空を彷徨った。黄色い蝶が一瞬、僕の指の先に留まってまた飛んで行く。


 追いかけたら間に合うはずなのに。彼女の苦しそうな顔を見たら、それが出来なかった。十年間、僕はずっと、彼女を忘れられず、探していたのに。

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