第4話
バスに揺られ、彼女が連れてきてくれた場所は、紫陽花の花が綺麗に色付く寺院だった。
「ずっと天気が怪しかったでしょ? だから、雨の日でも日本を感じられて楽しい場所ってどこかなって考えてて。でも、見事な快晴だね」
「暑いくらい」とKahoが僕を見て肩を竦ませた。
「雨の中のアジサイ、きっと綺麗だね」
「うん。すごく綺麗だよ。今度は雨の日に来るのも良いかもしれないね」
「今度もある?」
「ロアが望むなら、いつでも。またいつでも来てよ。って、まだ会ってからそんなに時間が経ってないのにこんな話するのも変かな」
「ロアが楽しいって思ったら、またね」とKahoは少し恥ずかしそうに口元をハニかませて言った。それから、「あっちのほうも行ってみようよ」とどこか誤魔化すように先を歩こうとする姿がおかしくて、思わず僕も笑ってしまった。
小路の中、Kahoが前を歩く。ゆったりとした足取りで、景色を楽しんでいるその後ろ姿が微笑ましかった。落ち着いたブルー。ストライプ柄のロングシャツの裾が、彼女が歩くたびにひらひらと揺れている。僕は足を止めて、スマホのカメラを彼女に向ける。少しずつ遠ざかっていくその細い背中を切り取り、収めた。
やっと僕との距離に気付いた彼女が「どうしたの?」と振り返り見る。僕はスマホをボトムスのポケットに仕舞いながら、「何でもない」と首を横に振った。
「ここの抹茶、美味しいって有名なんだよ」と、Kahoが藍色の暖簾が掛かった店先を指差した。
古民家を改装して作られたらしい店内に一歩足を踏み入れると、温かな木の香りと共にお茶の香ばしい匂いが僕を包み込んだ。
柔らかな灯りにホッと心が落ち着いていくのを感じる。平日の昼間ということもあってか、丁度いい静けさが漂っていた。
案内された席に着き、メニューはKahoに任せる。彼女はパラパラとメニュー表を捲り、いくつかピックアップするとそれを近くにいた店員に伝えた。
「静かでいいね」
「うん。落ち着く」
こんな風に店の中で寛ぐ時間を作れたのは、いつぶりだろうか。はぁ、と思わず深い息を吐き出してしまう。Kahoはそんな僕を見て、くすくすと肩を揺らして笑った。
「韓国では、忙しく過ごしているの?」
「うーん。ちょっとだけ」
「そうなんだ」
「でも、忙しいのは、君もでしょ? 毎日遅くまで、お疲れ様です」
「私もちょっとだけだよ。いつも通話してくれてありがとう」
「ずっと直接お礼を言いたかったの」とKahoは頭を下げる。滑るように落ちた髪を、さらりと耳に掛けながらkahoは顔を上げて、もう一度「ありがとう」と肩を竦めるように首を小さく傾けた。何だかそれが気恥ずかしくて、「あー……」と言葉が詰まる。落ち着かない両手を隠すように組んで、人差し指同士をぐるぐると回した。
「僕も、楽しいから。ありがとう」
Kahoと視線がぶつかる。彼女もまた僕と同じように視線を彷徨わせると、「何だか照れるね」と耳を赤くさせて言った。照れる、と真似して笑いあっていると、彼女が注文した軽食が穏やかに運ばれてきて、僕たちは慌てて姿勢を正した。それがまたおかしかったけれど、それを気にする余裕もあまりないくらい、僕の鼓動は速かった。
「帽子、外す?」
僕がグリーンティーの入ったグラスを持つと同時に、彼女が帽子を外す仕草をする。「あ、」と言葉に詰まる。さっきまでの照れ臭さで詰まる言葉とは違う。どうやって誤魔化して、この場を切り抜けようかと思考が巡る。
「顔。あまり自信がないから、あの、見られると恥ずかしい」
帽子があると安心するのだとキャップのツバをまた引き下げれば、彼女は「そっか」とあっさりと頷いた。
「えっと、気にしないの?」
「帽子のこと? 食べるときに邪魔かなって思って聞いただけだから。顔、見られたくないって言ってる人に強制はしないよ。せっかく楽しく過ごしてきたのに、そんなことで台無しにしたくないじゃない?」
「それでも来てくれたことが嬉しいから」と伏し目がちに彼女が微笑む。それから、一口、グリーンティーに口をつけると、彼女は紫陽花が咲く窓の外へと目をやった。僕もその視線につられてそちらへと顔を向ける。
「誰にも見られたくない一面って、きっと、みんなにあると思うよ」
静かに吐き出されたKahoの言葉に視線を戻す。Kahoは変わらず、窓の外を見ていた。その言葉は、僕を励ますようにも思えたし、それと同時に彼女が彼女自身に言い聞かせているようにも思えた。グリーンティーの中に浮かぶ氷が、カランと涼やかな音を鳴らした。
「よし、決めた!」
穏やかというよりは、少しの寂しさを纏いつつあった空気を壊すように、彼女は僕を見ると明るくそう言った。そして僕のほうへ少し体を乗り出す。
「え、なに? なにを決めたの?」
「次は、私が韓国に行く」
良いかな、と子どものように無邪気に目を輝かせる。Kahoの唐突な発言に呆気に取られていれば、彼女は我に返ったように「あ、」と言葉を詰まらせた。
「ごめん。勝手なこと言っちゃった。迷惑……かな」
「あ、ううん! 全然、まったく迷惑じゃない!」
「本当に嬉しい」と慌てて返事をすれば、彼女は僕の真意を探るように首を傾げる。返事が少し遅れてしまったのは、あまりに突然すぎて思考が一瞬停止しかけただけだと、どう言ったら伝わるのだろうか。彼女が僕の国へ来たいと言ってくれているのは、とても嬉しいことなのに。
「あの、本当に嬉しい。ぜひ、来て。僕が精一杯、案内するから」
「今日の君と同じように」と続ければ、Kahoの目が少しだけ見開かれるのが分かった。それからまた耳が赤く染まっていく。
「仕事の予定が分かったら、また連絡する」
そう言いながら彼女が肩を竦めて、可愛らしく照れたように笑う。
鼓動の速さに息が少し苦しい。グリーンティーのほろ苦さが、それを少し落ち着けてくれるようだった。
そして、そっと彼女の姿を盗み見る。不思議となぜか今日は、花歩の姿を思い出すことがなかった。
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