第3話

 一度越えてしまった線をもう一度越えるのはとても簡単だった。初めて通話した数日後、僕たちはまた深夜に短い会話を交わした。


 やはり後ろのほうからは車の走行音が聞こえてくる。今日も仕事だったのかと問えば、今は繁忙期だからと彼女は笑った。毎日残業しなければいけないほどではないけれど、オフシーズンに比べたら忙しいのだとあまり重くない溜息と共に続けて彼女は口にする。


 「ごめんなさい。心細いからって甘えちゃってるかも」

「僕は全然。大丈夫だから、気にしないで」


 タクシーが来るまで。週に一回か二回。彼女が残業で、僕もその時間に家に帰ってこれた日は、彼女と通話することが定番となっていった。


 繰り返していくうちに、初めは抱いていたマネージャーの忠告に対する罪悪感も麻痺していく。「Kahoとしか通話していないから大丈夫」なんて自分に言い聞かせるように開き直っている自分もいた。そうしてでも、彼女と話をすることが面白くて、光の速さで過ぎていく日々の中の楽しみになっていた。


 お互いにお互いの核に触れるような会話は暗黙の了解で避けながらも、それでも他愛もない会話が心地よかった。


 その日はいつもより少し早い時間から通話が始まった。


 ゲームの話や最近食べた食事の話。Kahoは聞き取りやすいように、ゆっくり、そしてハッキリとした口調で話をしてくれる。分からない単語があれば、それをさらにかみ砕いたり、もっと簡単な言葉に言い換えたりしてくれるから、とても会話がしやすかった。きっと彼女が僕の言葉の多くを読み取ってくれているから成立しているのだろうけれど、日本語が上手くなったような感覚になった。それを伝えれば、彼女は決まって「上手だよ」と褒めてくれるから、何だか子どものように誇らしく感じてしまっていることが恥ずかしかった。


 ふと「いつか日本に行きたい」と言葉が漏れた。無意識だった。そういう話題があったわけでもなく、気付いたら口にしていて僕が一番戸惑ってしまった。彼女はそんな僕をおかしそうに笑って、そう思ってくれることが嬉しいと言った。


 「日本に来たら、私に案内させて」

「そんなこと言うと、僕、本当に行きますよ」


 彼女がまた笑う。脳裏にあの日の少女が浮かぶ。色褪せて、もう顔もハッキリと思い出すこともできずにいるのに、忘れられない笑顔がある。


 この気持ちは何なのだろう。Kahoに勝手に花歩を重ねて、僕は何をしたいのだろう。焦がれた想いを彼女で埋めようとしているのかと、罪悪感が胸に広がるのを感じる。


 通話を終えて、僕は枕に顔を埋める。溜息が吸い込まれていく。僕は今、誰に会いたいと思っているのだろうか。

 



 その日は、自分が思っているよりも早く訪れた。あれから僕もKahoも冗談のように日本への旅行を話し合っていたのに、勢いに任せて彼女との通話中に日本までの航空券を購入してしまった。


 飛行機でわずか数時間の旅。日本についたのが夜間だったこともあり、その日はKahoには会わずホテルで一晩過ごした。


 翌日、ホテルまで来てくれるという彼女を待つため、エントランスの自動ドアを抜けて邪魔にならないように端に寄りスマホを取り出す。開くのはいつものゲームアプリではなく、数日前にお互いのアカウントを追加したばかりのメッセージアプリで、それが新鮮でそわそわしてしまう。


 ホテルの部屋を出る前に撮影し送信した僕の全身写真には既読がついていた。彼女からは「もうすぐ到着する」とニッコリとした絵文字付きで返事が来ている。


 どこかおかしいところはないだろうか、と振り返り、窓に映る自分の姿を確認する。黒いキャップを被り直す。緊張して少し忙しない鼓動を落ち着かせるために短く息を強く吐き出して、「よし」と気合を入れて振り向けば、さっきまでいなかった人がそこにいて体が跳ねた。


 「うわっ、」

「ロア?」


 目深に被った僕のキャップの下を覗き込むように首を傾げる女性。僕がゲーム内で使っているユーザーネームを口にしたその声は、スマホのスピーカー越しに聞く声によく似ている。いつの間にか背後に立たれていたことに驚きすぎて「Kaho?」と聞き返した声は、自分でも情けないくらい掠れていた。


 「大丈夫?」

「急に後ろに立ってるから……。びっくり、した」

「ごめんね、どう声を掛けていいか悩んじゃって」


 驚かせるつもりはなかった、と彼女は顔の前で両手を合わせる。申し訳なさそうに下がった眉が愛らしい人だ。


 初めて見る彼女の姿。肩口で切り揃えられた、ダークブラウンの髪を左だけ耳に掛けている。耳たぶには小さくて丸い赤いピアスが光っていた。


 年齢は二十代半ば、大体僕と同じくらいだろうか。そこにはあまり驚かなかった。きっとそれは、声の印象だったり、僕が勝手に同い年である花歩のイメージを彼女に植え付けていたからかもしれない。勝手に。本当に勝手に、彼女は同い年くらいだろうと想像していたから。それがおかしなことだと分かっていたのに、今更それを実感してしまって思わず苦笑いで口元が引き攣った。


 彼女が不意にくすくすと肩を揺らして笑う。うん?とそれに首を傾げてみせる。


 「いや。本当に来たんだって思って」

「本当に来たよ。悪い? 君だってノリノリだったでしょ」


からかうような、イラズラっぽい表情をする彼女に、少しだけ拗ねた口調で返せば、焦ったように両手を振る。「来てくれて嬉しいよ、本当に」と必死に訴えてくれるその姿がおかしくて、思わず吹き出してしまった。


「ちょっと、」

「先にからかったのは、君のほうでしょ?」

「あー……そうだね、ごめん」

「どうしようかなぁ」

「今日は誠心誠意、心を込めて日本を案内するから許してよ」

「うーん。いいでしょう」


 「冗談だよ、すごく楽しみにしていた」と伝えれば、彼女はパッとその顔を明るくさせる。それじゃあ、早速行こう、と僕を手招きしながら歩きだす。バスに乗るから大通りに出よう、と彼女が言っている。


 見慣れない景色。どこか自分の国に似ているようで、似ていない。ビルとビルの隙間から見上げる空はとても青く眩しくて、目を細めた。息を吸い込めば、十年前に来たときにも同じような気持ちを抱いたことを思い出す。


 Kahoの後ろを追って大通りへと出る。ホテル前の閑静さとは違い、賑やかに人が行き交っている。ふと、通りを挟んだ先にあるビルに目が行く。高い位置に取り付けられた大きなモニターの中で僕が笑っている。僕たちが広告塔として起用されているブランドのCMが流れていた。日本での活動も少しずつ始まっていることを実感する。


 ハッとして彼女へと目をやれば、彼女は「バス停はこっちだったかな」と辺りをキョロキョロとしていてモニターには目が行っていないようだった。


 思わず胸を撫で下ろしてしまう。急いでキャップのツバを引き下げて、顔が見えないようにした。そして、彼女が気付く前にモニターの映像が切り替わることを願う。


 僕は、どうしても、僕が『ジアン』であることをバレたくなかった。連絡用のアプリの名前も本名を使っていなくて良かったと今更ながら思う。


 彼女がどこまで『ジアン』に興味があるのかも、何にも知らないけれど。そんなこと気にしない人なのかもしれないけれど。僕は、『僕』のまま、彼女に関わりたいと思ってしまった。

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