第2話

 僕が幼い頃から、父と母はとても忙しい人だった。海の向こうを飛び回り、一ヶ月の間で家に帰ってくるのはほんの数日。シッターのほうが僕に詳しいくらいだった。


 そんな生活が当たり前ではあったけれど、寂しくなかったわけはなくて。だからこそ、学校が長期休みになるのが楽しみで仕方なかった。両親の仕事に同行することが出来たから。行った先で僕に構うことができなかったとしても、同じ時間に同じ空気を吸えることが幸せだった。


 その中で、僕は花歩に出会った。高校一年生のときだった。


 「ジアンと同い年なのよ。きっと話も合うでしょう。パパとママは仕事の話があるから、少し遊んでいらっしゃい」


 初めて訪れた日本。玄関先で僕の両親と同い年くらいの夫婦が、黒いアンティーク調の門を開けた少女を手招きで呼んだ。それを見ていた母さんが、僕にそっとそう告げた。


 僕の前までやって来た少女は、彼女の両親と僕を交互に見ながら何か会話を交わす。それから僕の腕を軽く引っ張って微笑んだ。戸惑う僕は何も返せないまま、両親に見送られるままに、彼女に身を任せるしかなかった。


 彼女が先ほど通って来た門を抜けて、外へと出る。腕は離され、僕たちは一列になって歩道のない道を歩く。どこへ行くの、とも聞けないまま、惑うことなく進む彼女の後姿を見る。白いブラウスから伸びた、白い腕。歩くたびにふわふわと揺れる、紺色のスカート。学校帰りだったのか、青いスクールバッグが肩に掛けられていた。


 不意に彼女の足が止まる。あまりに突然だったから、僕はぶつからないように慌てて足を踏ん張った。


 「ここ」と示すように彼女が指を差すから視線を動かす。英国調の屋敷。彼女は当たり前のように、彼女の家よりももう少し立派な門を開けてズンズンと中へ進んでいく。大きなバラがいくつも実ったトンネルを抜けて、レンガの道をついていく。屋敷の横を通り抜け裏へ回れば、そこには、息をのむほど美しい庭園が広がっていた。


 躍るような足取りで彼女は両手を広げて、花が咲き乱れる庭園の中を歩く。僕はただ、未だ惑うままに、その後ろをついていくことしかできなかった。


 くるりと彼女が振り向いて僕を見る。突然目が合って、ぐっと喉が鳴った。そんな僕を見て、一瞬目を丸くさせてから、彼女は肩を大きく揺らして弾けるように笑った。


 そのあと、何かを言われたけれど、上手く聞き取れなかった僕は、ただ照れ隠しに空を仰いだ。突き抜ける青が眩しかった。


 「ジアンさん?」


 インタビュアーが僕を怪訝そうに見つめ首を傾げている。ハッと我に返って、僕は笑いと咳払いで誤魔化しながら姿勢を正した。なんだったっけ、と小さく呟いて前髪を指で払う。右隣に座るイジュンがこそっと僕に耳打ちをした。


「兄さん、『忘れられない景色』ですよ」

「ああ、そうだった」


だから、僕はあの庭園を思い出して、つい意識がそっちに持っていかれてしまっていたんだ。ごめんなさい、とインタビュアーに頭を下げれば、イジュンが「寝不足なんです。仕事が忙しくて、夜中にしか大好きなゲームが出来ないから」と冗談っぽく言った。インタビュアーと周りにいたスタッフが笑う。周囲の空気は柔らかく解され、そっと胸を撫で下ろした。


「忘れられない景色。これから見つけていきたいですね」


 なぜだか僕にも分からないけれど、あの庭園の話は口にできなかった。




 「今日の兄さん、おかしかったですよ」と取材が終わるなりイジュンにそう詰められたが、「お前の言う通り寝不足なんだよ」とあしらう。イジュンは少し唇を尖らせた拗ねた口調で「嘘ですよね」と言った。


 「嘘? なんで嘘なんてつかなきゃいけないんだよ」

「隠したいことがあるからでしょ、それは」

「隠したいことなんて、別に」

「忘れられない景色」


帰り支度をしている僕の腕をイジュンが掴む。その手を辿れば、探るような鋭さを宿すイジュンの目が僕を見ていた。ここで目を逸らしたら、彼の言うことを肯定してしまう気がして平静さを装いながら見つめ返した。


 互いに口を開かず、見つめ合う時間が続く。秒針が半周しようという頃にイジュンが肩をふるふると震わせて、「僕の負けです」と笑いながら手を離した。想像以上に強い力で掴まれていたようで、腕が少し痛い。


 「別にいいですよ。隠したいことの一つや二つ、誰にだってありますから」


せっかく同じグループになれたのに。ちょっと僕が寂しかっただけです。と言うイジュンには本当の弟のような可愛らしさがある。然程変わらない背丈の彼の頭に手を伸ばして、その柔らかな髪を搔きまぜた。


 「別に、そこまで秘密にするようなことでもない」

「そうなんですか?」

「うん。日本で見た、イングリッシュガーデンが忘れられないだけだから」

「日本庭園とかじゃなく? へぇ」


興味深そうにイジュンが目を丸く見開く。「確かに、別に秘密にするほどでもないですよね」と腕を組んだイジュンは、少し考え込むように黙り込んだ。それから、「あ!」と何かを閃いたように手を打った。そして口元をニヤつかせながら僕を見る。


 「兄さんが忘れられないでいるの、景色ではないですよね」




 「マネージャーにはその話、しないほうがいいですよ」と帰り際、イジュンが言った言葉を頭の中で繰り返す。庭園で共に時間を過ごした花歩の話はイジュンにもしなかったのに。何かを勘付いたようなイジュンは僕の肩を励ますように叩いてから帰っていった。



 「言われなくても、話さないって」


 家について、溜息を吐いてベッドに沈んでいく。瞼が重い。流れるチャットの文字の中に、今日もあの名前はない。コミュニティのメンバーを一覧にして表示してみる。名前の横に書かれた最終ログイン日時は昨日の夜中を差していた。以前よりも一時間から二時間ほど遅い時間。最近はその時間にログインするようになったのだろうかと粘ってみているけれど、とっくにその時間は過ぎている。今日はもう、現れないのだろうか。どうして僕は、こんなにも執着しているのだろう。ただ、あの子と名前が同じなだけ。本名かどうかも分からない。あの子だって、会ったのはあの日が最初で最後。もう会うことは、きっとないって分かっているのに。


 僕はもう一度息を深く吐き出して、ゆっくりと目を閉じた。


 軽快な電子音が意識を揺さぶる。寝ていたと気付くまで数秒かかるくらいには僕の意識はまどろみの中にあった。


 何の音だ、と布団の上で身じろぎをしながら耳に指を当てる。コツンと耳の中に入っているイヤホンに爪が当たる音がして、意識が急速に覚醒していくのを感じた。着信音だ。


 慌てて掛け布団をひっくり返してスマホを手繰り寄せる。画面を見れば、通常の着信ではなく、ゲーム画面がボイスチャットの通知を告げていた。いつも聞いているオープントークではなく、プライベートトークが鳴っている。相手が僕個人を指定して掛けてきている。画面に表示されている相手の名前を見て、僕は意識も体も完全に飛び起きた。


「Kahoがなんで……」


 このトークは取るべきなのか。マネージャーの「ボイスチャットは禁止」と言う声が頭で警告のように響いている。スマホを持つ手が震える。僕の指は、緑の丸と赤い丸の上を交互に彷徨った。

出るなら早く出ないと切れてしまう。でも、ここでこの通話に出てしまったら、僕は……。でも、でも、でも。と思考がぐるぐると巡る。思わず口から唸り声のような音が出てしまった。髪をぐしゃぐしゃと掻きあげて、僕は、震える指で緑の丸をタップした。


 イヤホンからは、ガサガサと何かが擦れる音が聞こえてくる。僕はそれに耳を澄ませ、ごくりと息を飲み込んだ。


「あ、もしもし」


通話が繋がったことに気付いた相手がそう言った。高すぎることも低すぎることもない。柔らかさを含んだ声は女性のものだ。そして、日本語だった。何か返事をしなければ。そう思うのに、ひどく喉が渇いて、上手く言葉を発することができない。心臓の音がうるさい。あれ、と戸惑うような女性の声がする。


「あ、そうか……。日本語、分からないのかな。もしかして、」


どうしよう、と独り言のように嘆く声がする。「ハロー?」「ニーハオ?」「えー、なんだろう……」。あれこれ、ボソボソと呟くように聞こえてくる言葉に思わず笑ってしまった。


「あの、」

「ごめんなさい。ちょっと、緊張。えっと、日本語、少しなら分かります」

「本当?」

「はい。ちょっと、練習しましたから」


 花歩にまた会える日を願って。少しだけ練習した日本語。あれから十年。一度もまだそれは叶っていないし、叶うことを諦めていた。まさかこんな風に役立つ日が来るなんて思ってもいなかった。通話相手のKahoは「とても上手」だと褒めてくれた。


 「ごめんなさい、急にボイス飛ばしちゃって」

「いえ。あ、初めまして」

「あ、そうですね。初めまして」


よくテキストチャットで会ってるから変な感じだけど、と彼女が笑う。その後ろで車のエンジン音のような音が聞こえてきた。部屋に掛かっている時計を見る。時刻は深夜二時になろうというところだった。


「いま、外ですか?」

「あ、うん。そうなの。残業で、終電がなくなっちゃって。あ、終電って分かります? 最後の便の電車」

「はい、分かりますよ」

「それでタクシーを呼んだのはいいんだけど。タクシーが来るまで少し心細くて。ゲーム起動してみたら、うちで今、君だけログインしていたから」


 思わず、と彼女が申し訳なさそうに言う。誰かの声を聞いていたかったのだと言われて、勝手に口元が緩んでいった。


「ログインしていて良かったです」


偶然、たまたまだけど。寝落ちしてしまっていただけだから、という本当のところは言わないでおくことにする。


「タクシーが来るまで、少しお話しますか?」


 「いいの?」とパッと明るい声が返ってくる。


「ボイスチャットは禁止」。頭の中にあったマネージャーの声は、僕の欲によってかき消されていった。

十分にも満たない、初めての通話。目を閉じれば、あの庭園の女の子の笑顔が浮かんだ。何だかKahoの話口調とあの日、庭園で感じていた空気がとても似ているように思えた。切れた通話画面。ありがとう、と飛んできたテキストチャットに、僕の胸に何かが満たされていくのを感じた。

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